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ソロ・パブリッシュ

ドリーム。

五感的ではない「現実」

2019.10.12(土)

問題というのは、どんな問題であっても、必ず中程度の感覚で起きます。
中程度の感覚とは思考や感情や気分、すなわちマインドのことで、
見えたり聞こえたりはしないけれども、比較的自覚しやすく、言葉や絵図などにも表しやすいので、
私はこの思考や感情や気分(マインド)を中程度の感覚と呼んでいます。
「どんな問題も必ず中程度の感覚で起きる」、これを一般的な表現にすると、
どんな問題も心の問題である、とか、どんな問題も頭のなかにある、ということになります。

一般常識では絶対そんなことはないわけで、
心のなか、頭のなかで起きている心理的な問題を除くと、
多くの問題が現実に起きている、とされています。
だから現実に向き合い、身体を動かしたり言葉を発したりして働きかけることによって、
問題は解決に向かうと。
しかし、その現実がマインドの産物、心や頭のなかで造られたものであれば、
現実に向き合い、対処するというやりかたでは、
問題という形で現れた不具合に一時的な手当てをすることはできても、
再発したり、同じパタンの問題がちょっとだけ組み替えられて再来したりと、
何らかの形で更新された問題と向き合い対処することを求められます。
問題を生みだす土壌が変わっていないからです。
問題を生みだす土壌とは、現実というものを想定している心のなか、頭のなかのことです。
現実を、個々人のマインドと切り離して、誰にとっても同じ実在(究極には物質)とする一般常識では、
現実は個々人のマインドとは別の原理(自然科学の法則や社会的な要因)で動いているとされるので、
その一部を変えることはできても、現実それ自体を変えることはできません。
また、現実を動かす原理(自然科学の法則や社会的な要因)は複雑であり、
完全に統御することはできません。
したがって、絶えず、多種多様な問題が発生します。
二度と問題を造らないという状態は、
現実が、心のなかや頭のなかでできたものである、
現実の基礎である物体の実在さえ、心のなかや頭のなかで定義したことである(客体思考)、
ということに気がつかない限り、到来しません。

中程度の感覚(思考、感情、気分)より濃くてはっきり感じられる感覚は、
色、形、音声、匂い、味、痛みなどの五感的な感覚です。
五感的な感覚は、ただの感覚として感じられているときには、
その根拠として物体は想定されていないし、
空間的な広がりや、内部や、時間的な変化も、想定されていません。
白いとか固いとか、何らかの五感的な感じとして感じられているだけです。
ところが、この感覚の向こうに物がある、とか、
その物体が見えていないところにつながっている(たとえば隣りの部屋につづいている)、
その物体が時間をへて変わっていく、といった、
心のなかや頭のなかにある現実という思考を通して感じると、
ただの感覚の束に物体という膨らみができ、広がりや内部ができ、
過去と未来につながる現在(物体の現在の状態)ができます。
実際には、何らかの五感的な感じが感じられるということ以外は、
物体も、広がりや内部も、過去と未来につながる現在も、全部想定であり、
心のなかや頭のなかで造ったもので、全然五感的ではないのですが、
心のなかや頭のなかで行っている想定に気がついていないと、
物体の実在、その連続的な広がりや内部、連続的な変化は非常にリアルで、
逆に、連続的に広がり連続的に変化する物体が本当にあるからこそ、
(その物体の一部である身体から)感覚が発生する、と思えます。
ただ、これは「思える」リアリティであり、「感じられる」リアリティではありません。

一般常識では、五感的な感覚が現実の根拠とされますが、
五感的な感覚が、物体があって、それが連続的に広がり、変化する現実の証拠になるのは、
「連続的に広がり、変化する物体が本当にあるからこそ感覚が発生する」
という転倒が是認されているときだけです。
五感的な感覚は、上述のように、客体(物体)‐空間‐時間思考システムを使って
心のなかや頭のなかで造られる現実に搾取(?)されることはあっても、
現実の生成にはまったく関与していません。
五感的な感覚は思考ではないからです。
実際に、五感的な感覚を何らかの感じとして感じているだけの「プレゼンス(現前)」状態だと、
物体とか、空間とか、時間のイメージは出てきません。
本当に「今ここ」に居ると、「今ここ」云々ということも考えません。

何か気がかりなことがあるとすると、それは次のような成分から構成されています。

①過去の記憶(マインドで描いている)
②未来の予想図(マインドで描いている)
③①②と連結させた五感的な感覚(この連結はマインドで生じている)

①と②がマインドでこしらえていることは明白です。
で、一般的に③を「現実」というのですが、
やはりマインドでこしらえている連結を解いてしまうと、
③に含まれていた五感的な感覚は、①②とは全然関係ないんだということがわかります。
気がかりなことが気になるのは、①+②+③の連結をマインドでつくっているからです。
どんな問題も必ず中程度の感覚(マインド)で起きる、とはそういうことです。
①②と連結されなければ、五感的な感覚は「問題化」しません。

あらゆる問題は「問題ではない」と気づかれることによって消えるのですが、
問題ではない、問題は存在しないと気づく、ということは、
この連結を断つこと、
五感的な感覚が問題の構成要素ではないことに気づくことです。

それは問題の解決をあきらめることとはまったくちがいます。
問題の解決をあきらめても、問題は未解決の問題として心のなかや頭のなかに残りますが、
問題ではないと気づけば、問題は心のなかや頭のなかからそっくり消えます。

五感的な感覚は問題の構成要素ではない。
問題はどんなものでもマインドで起きるけれど、五感的感覚はマインドではないのだから。
だとすると、どんな五感的感覚が現れてもかまわないことになります。
どんな五感的感覚を感じてもよい。
実際、①②と連結されていない五感的感覚が感じられていると、選り好みが起きません。
選り好みはマインドで起きますが、
おもしろい映画に集中しているときのように、選り好みしているヒマがないのです。

このときマインドは、
「物体があって、それが連続的に広がり、連続的に変化する(客体‐空間‐時間思考システム)」
という思考から自由になっており、
マインドよりもっと淡い微妙な感覚と連動して、
わくわくした気分とか、くつろいだ豊かな気持ちとか、直感的な愉快な思考などが湧くようになる。
すると、これは自分の行動、これは誰それとの縁、これは運、これはシンクロニシティ、
などと区別できないような自他力統合した形で、
五感的な感覚も、自由なマインドの動きに最適化した状態になります。

何かを欲する、望むことは、心や頭のなかで、すなわちマインドで起きます。
特定の結果を望んだとき、
マインドが客体‐空間‐時間思考システムにコントロールされていると、
その欲求、願望自体が客体‐空間‐時間思考に沿うようにつくられてしまうので、
まず、客体‐空間‐時間思考というセルフマインドコントロールを止める必要があります。
望んだことが望んだ結果になるかどうかを気にかける、監視するというのも、
心のなか、頭のなかにある客体‐空間‐時間思考システムの働きです。

五感的な感覚がただの五感的な感覚として感じられ、
物体があるとか身体があるといった観念にもじゃまされていないとき、
マインドはコントロールされておらず、まったく自由です。
この状態で、ふと何かを望むとすれば、
それは五感的な感覚を含めた全感覚宇宙が最適に実現するための部品です。
「ほしい!」「こうなりたい!」と思う、その思いの「感じ(周波数)」とか、
望む内容の「感じ(周波数)」が必要とされているのであって、
その通りに五感化することもあれば、その通りには五感化しないこともありますが、
自由なマインド、「問題」のないマインドにはどちらでもいいことです。

このブログでいう「3次元」は、
客体‐空間‐時間思考システムにコントロールされたマインドがつくる現実がリアルな状態をいい、
そこから脱してマインドが自由になると「非3次元」なのですが、
実感的にいうと、
3次元の欲求、願いごとは重たくて深刻であり、
非3次元の願いごとは総じてチャラいですね。憶えているのもむずかしいです。
3次元ではシリアスに考えるべきとされているようなテーマであっても、ふわふわと無重力的です。
私的にいって、最もエグい、コワいと感じる願いごとは「復縁」関係なんですが、
これも非3次元で出力されればドロドロはないのかもしれません。
標的にされる人、または会社などの組織と、以前とは全然ちがう関係ができて、
それがベストという結果になるかもしれないし、
名前が同じ別人、別組織と出合うというオチかもしれないし。
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  1. 2019/10/12(土) 16:24:22|
  2. 実現のメタフィジクス
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コミットメントの重要性

2019.10.5(土)

私は、スピ系とか心理系の対人セッションは行っておらず、
クライアントとして受けた経験も2回(モニターとして受けたものも含めると3回)しかないのだが、
その少ない経験と、人づて、ネットづてに聞いた話を自分なりに総合すると、
相応の対価の授受があって行われるセッションには効果があるケースが多い、と思う。
たとえクライアントの期待どおりにならなくても、「そっち(期待した方向)じゃなくてよかったんだ」
ということがわかって、軌道修正される。
効果が上がるのは、相談する側に本気で変わる意志がある、
つまり自身の変化にかかわろうとしていて、
そのコミットメント(約束、公約)が対価という形で表明されているからである。
お金は、自身の意志が確認できる形をとった、意志の表現手段であり、また変化への道標である。
むろん、対価なしにセッションを受けたり、セッションなしに変化を招来することもできるが、
客体‐空間‐時間思考システムのコントロール下にあるマインドがこしらえる3次元では、
何かを変えるには究極、物(客体)を動せるだけの強力な働きかけが必要だという観念が、
言葉にならない非象徴化領域(いわゆる無意識)に行き渡っているので、
3次元にリアリティがある状態では、
その強力な働きかけを何かで表現する必要がある。
お金を払うことによって、変化を起こすだけの働きかけを行ったことを自分自身に示すのである。
対価の支払いが生じようが生じまいが、必要なことは何でも引き寄せられてくるような状態なら、
もはや対人セッションは不要であろう。

ただし、対価をともなうセッションを受けても、
相談する側に「この先生ならなんとかしてくれるだろう」といった依存心があると、効果は上がらない。
その人は、自分ごとである自身の宇宙の変化にコミットしていないのであり、
お金をいくら積もうと、その金額は何も表現していない。
お金を支払えば自分の思いどおりの、自分の快適さが向上するサービスが受けられる、というのは、
物やサービスを受けとったときの負い目(心の負債)の決済手段としてお金を用いるという、
マインドでつくった3次元に相応しいマインドの動きから出力される思い込みである。
そのサービスの提供者が自分のニーズと合致するのかどうかを見きわめたり、
そのサービスを自分仕様にカスタマイズするなど、
受ける側にも受けとる力量が求められる。
身内や友人などのアドバイスが功を奏さないことが多いのは、
往々にして、話し手の側に、話を聞いてほしいとか共感してほしいといった欲求はあっても、
コミットメントがないからである。
「人に話すんじゃなくて、言葉にして紙に書いてみたら?(日本語はめちゃくちゃでもよい)」とか、
「できる、できないは考えないで、イメージで実現させて好きなように遊べばいいじゃん」とか、
何かアドバイスして、相手が乗ってきたとしても、十中八九、その助言は実行されない。
で、次回、同じネタを振られたとき、「こないだ、こういうことを言ったと思うんだけど、やってみた?」
と訊くと、「やってない」とか「一回、試してみたけどやめた」という答が返ってきて、
あれこれのできない言い訳を聞くことになる。
なかには、その人がほしい答を出してあげないと怒りだす場合もある。

先日、ある人から電話があって、体調がわるくて病院にかかっているという話をされた。
この人は、長年、人間関係で悩んできて、それが決裂という形で終わったとき
(私からすると二度と会うことはないだろうその相手との決裂は喜ばしい出来事と思えたけども)、
その決裂ショックから体調を崩し、ショックが癒えたいま、
体調が回復するともはや取り組むべき<問題>がなくなってしまう、
もしくは老化による心身の衰弱とか老後の生計不安とか、形容しがたい空虚とか、
もっと出口のなさそうな<宿題>に取り組まざるをえなくなるので、
とりあえず体調の回復を目標とする状態にとどまることで、
「<問題>を解決して、よりレベルの高い<問題>に取り組めるステージに進む」
という存在様式を維持しようとしているのである。
子どもは独立し、介護を必要とする家族はおらず、持ち家に住み、ローンなどもなく、
十年くらい前から自分の希望する仕事に就けていて、
3次元(というマインド世界。3次元は物理世界ではない)の基準から見ても問題のなさそうな
この人に、なぜ悩み煩う種が尽きないのかといえば、3次元にいるからである。
つまり、体調がよいとかわるいとか、お金があるとかないとか、
生育環境のせいでこういう性格になってそれは直らないのだとか、
さまざまな要素からなる境遇こそが、
自分の認識とは無関係に厳としてある現実ということになっていて、
その境遇が、思考や感情や気分で織り上げられた心像だということに気づいていないからだ。
マインド像が、「外部要因」に左右される固い現実と感じられるということは
(非3次元状態では外側がなくなる結果、内側もなくなる)、
体調のよしあしとかお金のあるなしとかのマインド像の影響を一切被らない、
生の五感的感覚を知らないということでもある。
3次元というマインド世界の主旨は「レッツ制限体験!」であるから、
3次元を厳とした現実と感じていれば、境遇が上向いても、また<問題>をつくりだす。

もちろん私は、3次元がどうとか、問題対処のプレイをつづけているだけだとかいう話はしなかった。
この人が、そんな話を聞くだけの根気を発揮させてくれていたとしても、
この人は3次元を出る時機にはいないのだから、
何やら詭弁じみた机上の空論としか聞こえないであろう。
私のしたことは、電話を通じた音声という五感的感覚に載った、
「波動、低!」というような困惑感+疲労感+やや驚き(自分のマインドに生じたミスマッチ感)、
「この人はこれこれこういう人だ」という思考(同じく自分のマインドに生じたミスマッチ感)を、
話を聞きながらせっせとゼロポに還していった、それだけである。
すると話題が変わって、相手は勝手に転調し、
電話の出だしが-10くらいとすると、終盤には-3くらいの「感じ(周波数)」に上がっていた。

「他人を変えることはできない」というのは、
客体‐空間‐時間思考システム下にある3次元に沿った方便のような言いかたで、
実際には、助け舟を出して役立ててもらおうというかまえになったとたん、
他者という宇宙像の一部を客体化し、
自分という宇宙像の一部も客体化し、
どちらも物質でできた「私」と物質でできた「あなた」「彼女」「彼」になって、
客体固有の原理、法則(物理学の法則など)に翻弄される3次元に再接着する。
助けてあげなくては、と思ったとたん、他者像は他人になる、
一枚の像が分離した物体になるのである。

非3次元状態では、あらゆる善行は善意なしに、わくわくやエクスタシーとともに起きる。
「ありがとう」などと言われて(言われなくてもいいが)「ふえ?(覚えがない)」というくらい、
あっけらかんと。
変化へのコミットメントもまた、悲壮な決意としてではなく、わくわくやエクスタシーとともに起きる。
  1. 2019/10/05(土) 15:30:52|
  2. コミットメント
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微妙な感覚

2019.9.30(月)

一昨夜、『失われた時を求めて』(プルースト/吉川一義・訳/岩波文庫)の「ゲルマントのほう」後半
(岩波文庫だと7巻)にチラッと出てくるスフィンクスのことがなぜか気にかかり、
ネット検索してスフィンクスに関するうんちくネタを楽しんでいたら、
そのあと、瞑想していたときに、非3次元エジプト世界に降りていました。

非3次元エジプト世界とは、物とその広がりや変化を前提とする3次元の歴史学、考古学では
特定できないし、特定する必要もない、という意味です。
同じく3次元の天文学では特定できない非3次元アルクトゥルス世界とか、非3次元シリウス世界とかも
あります。
なぜそこを「エジプト」と呼べるのかというと、その世界の「感じ(周波数)」が、
私の中程度の感覚(マインド)で感じられる概念、五感的感覚で感じられる言葉の音や形と呼応し、
それが名前として、象徴として適していたからであり、
3次元サイエンスないし3次元スピリチュアルで説明できる客観的根拠は何もありません。
そこは、石でいうとラピスラズリか、ホークスアイのような、藍色系の世界で、
垂直的、幾何学的な方向をもっています。
私は空洞で、どうも中身ががらんどうの巨大や像か建造物のようだ。
すべてが突如出現して、でんと居座ってる感じで、微動だにしません。
とにかく動けないし、動く必然性もなさそうなので、瞑想が終わるまでそのままでした。

つづいて昨日。
地元の音楽愛好団体の演奏会を聴きに行った帰り、徒歩で自宅に向かう途中、
道をまちがえて10分くらい余計に歩いてしまい、
ほどなくして正しい道に出た、と思ったら、
何度も通って知り抜いているはずの道と、その周囲の光景が、
まるではじめて出合ったかのような感じがしてきました。デジャヴュの逆です。
なにこれヘンなの、と思いつつ歩いているうちに、どうも道を端折ったらしく、
というのは、まだまだ遠くにあるはずのコンビニがすぐ現れたからですが、
いつもより10分くらい余計に歩いているはずなのにもかかわらず、
いつもより短い時間で自宅に着いていました。
テレポーテーション、と言ってしまうと、すごく「超」常現象的な印象になってしまいますが、
そんな超常感、非日常感はなく、意図せずして近道ができた、くらいの実感です。

ふたつの出来事に関連があるのかないのかは、自分としてはどうでもよく、
非3次元状態になると、
こちらからは何も働きかけていないのに対立していた人と和解したとか、
こちらからは求職していないのにやりたい仕事のオファーがあったとか
そうした生活上の変化、人生の転機みたいなことへの着目度、関心が薄れ、
というのはとくに奇蹟ではなくなって、わざわざ3次元に戻って驚いたりしなくなるからですが、
それまでだったら「なんか不思議なことあったけど、生活に関係ないし」で通過していた、
微妙な感覚(高次)の動向の印象が強くなるのだな、ということに感慨を覚えました。

「微妙な感覚」という言いかたは、五感的な濃い感覚と比べたときの表現で
(五感的な感覚と微妙な感覚の中間が、思考や感情などの中程度の感覚すなわちマインド)、
それも3次元にリアリティがあるときの物理感覚、つまり、
「“私”が感じる以前に物があって、それが連続的に広がり、変化する」という「考え」を受け入れて、
その「“私”が感じる以前に存在する物」なるものを感じているときの物理感覚にもとづく尺なので、
3次元世界的な言い表しかたです。
非3次元状態になると、
「微妙」とか「淡い」というより、思考、感情などのマインドや、五感的な感覚とは性質の異なる感覚と
言ったほうが正確かもしれません。
たとえば氷が、水や水蒸気とは感触がちがうように(一見、逆と思えるかもしれませんが、この喩えでは、
固い氷が高次の感覚、水蒸気が五感的感覚です)。
非3次元状態でとらえた「微妙な感覚」は、クリアな夢を見ているときのように、
精緻にピントが合ってる感があり、夾雑物がないという意味で透明度が高く、明晰です。

生活を、人生をなんとか変えたいという目論見をもって、
問題を解決し、諸事を順調に運ぶためのサイン、啓示を読もうとして、微妙な感覚を待ち受けていると、
微妙な感覚のクリアさ、明晰さはわかりません。
そして、生活、人生をなんとかしたいと目論んでいるということは、
客体‐空間‐時間思考システム下でしか展開しない生活や人生を、ただいま絶賛実行中ということ、
すなわち客体‐空間‐時間思考システムという「考え」がつくる3次元がリアルだということですから、
現況は容易には変わらないのです。
「“私”が感じる以前に物があって、それが連続的に広がり、変化する」というルールのもとでは、
「私」はさまざまな人や物にグイグイと働きかけて環境を変えていかないといけないからです。
生活、人生に着目していると、微妙な感覚が微妙でしかなくなるのは、
この客体‐空間‐時間思考システムという「考え」に阻まれて、とらえづらくなるからです。
生活も人生も、それらをやめてはじめてうまく回り出すというか、
うまく回すという着想自体が不要。

3次元というのは、客体‐空間‐時間思考システムという思考でこしらえ、
それに合わせて編集した五感的感覚を活用してもっともらしさを与えた世界です。
客体‐空間‐時間思考システムから脱して、
「“私”が感じる以前に物があって、それが連続的に広がり、変化する」という3次元思考をやめると、
3次元という思考世界の操作を受けない生の五感的感覚が蘇生します。

この新鮮な五感的感覚には、微妙な感覚と、
客体‐空間‐時間思考システムに操作されていない中程度の感覚(マインド)が載っており、
いわく言いがたく玄妙で豊かな響きをもっています。
このように、コヒーレントな感覚宇宙のコーダ(曲の終結部)としての五感的感覚が蘇ると、
空を見上げたり、空間を凝視したりして、不思議を探す必要はなくなります。
いつでもどこでも不思議なので。
そして、人生や生活が消えるとともに、悩み、煩いもなくなるのだ。さいなら~。
  1. 2019/09/30(月) 16:29:39|
  2. デムパ話
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「私」と像との相生関係

2019.9.23(月)

私がわくわくしていることといえば、
感じ(波動、周波数)を感じて出現させること、プレゼンス(現前)そのものなので、
これがそうだと特定できないのですが、
言葉で表せる活動のひとつとしては、少し前に書いたように、
「音楽と浄化(?)」がテーマになってるっぽい小説の執筆があります。
これが400字詰原稿用紙換算で350枚を超えて、ようやく着陸する場が見えてきたのですが、
複数ある結末の確率はまだ揺らいでいて、どうなるかわかりません。
推敲するとまた変わるかもしれないし。
むろん出版するかどうかもわかりません。

何か書いていると、言葉が勝手に動きはじめます。
小説であれば、登場人物も勝手に動きはじめる。
そういうことは初めてではありませんが、今回はけっこう尺が長いので、
「へえ、この状況で、きみはそうするんだ。きみってそういう人だったんだ。へえ」
みたいなことが強く感じられ、感慨深いです。
こういうことは、べつに、文章や漫画や絵や音楽などの創作活動系の人とか、
実用品や装飾品などを制作するものづくり系の人に特有の
マジカルインスピレーション! というわけではありません。
どの「私」もやってる、ありふれたこと。

夢見手の「私」が感じて出現させている一枚の像、一枚の夢は、
ある「感じ」としてまとまった(固有の周波数をもつ)、多くの個別の像を含んでいます。
これらの個別感も「私」が認識即創造している感触で、
個別の像の向こうに、「私」の認識と無関係な物体が客体として存在しているわけではありません。
したがって、「私」の感じかたによって、その「感じ(周波数)」はころころ変わるのですが、
それは同時に、個別の像が動きたいように勝手に動いている、ということでもあるのです。
あらゆる他人は動きたいように勝手に動きますし、
動物も、植物も、非生物も、勝手に動きます。
自分の身体も勝手に動いていきます。
ときに「へえ、きみってそういう“感じ”(周波数)なんだ。へえ」といった驚きをもたらします。
↑これは正確には、中程度の感覚(マインド)で感じている、驚きや感動という、
客体‐空間‐時間思考システムに操られた3次元を基準にすると相対的にポジティブなマインドになっているとき、
そのポジティブな「感じ(周波数)」とリンクする(相似形の)五感的感覚が現れているということ。
まず何らかの状況があって、次にその状況への反応として驚きが生じるのではなく、
驚き(中程度の感覚)と状況(五感的な濃い感覚)は重なって現れている。


微妙な感覚(高次)、中程度の感覚(マインド)、五感的な濃い感覚(物理像)、
これら全感覚帯域が遮られず迂回やループもせず、まっすぐ通っている、
整合している、コヒーレントである、
夢見手(私)がそういう夢を見ているとき、
統覚視点「私」(夢見手)と像(夢)は意気投合した相生関係にあり、
意図=実現した像(夢)
という等式が成立しています。
望むことがかなうことであり、かなうことが望まれる、という関係です。
「私」と像、夢見手と夢がそうした相生関係にあるとき、
「私」は自由自在にどんな夢でも描けるので、
夢も自由自在に、動きたいように動くのです。
たとえば創作分野でいうと、
創り手がわくわくしていて、出来上がりも評価も気にならず、どんな展開でも楽しめるとき、
制作物は勝手に、仕上がりたいように仕上がっていきます。

すごく運がいい、というか運気が回っている、ツイているとき、
何かトラブルやアクシデントがあっても、
「このピンチは使える!」ということがすぐに見えて、
かえって当初の想定を上回る好結果に着地することがあります。
そういうときは、コヒーレントな感覚宇宙のノリがよく、
各感覚帯域のダイナミックスが上がっていて、加速してるわけ。
微妙な感覚(高次)の実現速度が上がっていると、
プロセスの圧縮や効率化が起きて、
それに中程度の感覚(マインド)が追いつかなくて予想外の流れと映り、
一見、ピンチと見えるのですが、全然ピンチじゃありません。
運気が回ってるときは、感覚宇宙が整ってるので、
そういうときは(中程度の感覚での)古いとらえかたを自然にゼロポに戻してしまえるため、
すぐギアチェンジができて、ピンチがチャンスに転じます。

他人や物や自分の身体が思いどおりにならないとか、
他人や物や自分の身体の調子が心配だ、といった問題は、
「私」の感じかたが本来の感じかたとズレているときに生じます。
その原因は、
(1)客体‐空間‐時間思考システムにコントロールされていて、客体思考ベースの3次元に現実感がある
(2)自分の感覚宇宙にはない「感じ(周波数)」にチューニングしている
例:親などから無自覚に継承した思考パタン、リスペクトあるいはディスペクトしている人物の考え、
それらに被さった圏外entitiesの波動など
この2つで、(1)のように3次元にリアリティがある状態だと、
(1)をベースに(2)が絡んできて、慢性的な病気のようにコテコテになります。
(↑これがバシャールなど宇宙系entitiesが「制限のマスター」と呼ぶ状態です。)

「私」の感じかたが本来の感じかたとズレるとは、
①微妙な感覚(高次)を感じて出現させている「私」
②ズレた中程度の感覚(マインド)を感じて出現させている「私」
と、①と②の「私」の感じかたが異なる不整合が起きることをいいます。
で、感覚というのは、より濃いほうが強く感じられるので、②が優勢になって、
焦燥とか無力感とか心配といった「感じ(周波数)」として現れ、
五感的な感覚からなる物理像が「問題を孕んでいる」と映るのです。
何度も書いていますが、こういうねじれは100%中程度の感覚(マインド)で起きていて、
微妙な感覚(高次)と五感的な感覚(物理像)は関係していません。
なお、スピリチュアル界においても一般的にも、
「エゴ」と呼ばれるのは②の「自分の宇宙に属さない何かに憑かれたエゴ」のことであり、
エゴには本来、何の問題もありません。
夢見手(統覚視点)としてのエゴがなければ、どんな夢も見ることはできません。
客体‐空間‐時間思考システムは、自分の宇宙に属さない「感じ(周波数)」の最たるものです。
これは、以前の記事に書いたように、習慣に埋め込まれていて非常に気づきにくいので、
これに気づくことができれば、
一時的に(2)のようなことが起きて、自分の宇宙にない「感じ(周波数)」にチューニングしていても、
すぐに見抜くことができます。
客体‐空間‐時間思考システムから脱して非3次元状態になっても、
3次元をリアルに感じていたときに使っていたイメージとか感情とかが、
非象徴化領域(言葉や絵図にならないモヤモヤ領域、無意識)から浮上してくることがあり、
ときに本来は自分と無縁のentitiesの「感じ(周波数)」がそれに被ってきたりもしますが、
ズレてる、ヘンだ、きもちわるい、とすぐわかるので、即、ゼロポに還せます。

逆にいうと、何かが思いどおりにならないとか、心配といった問題が浮上しているときは、
感覚の不整合が起きているというサインといっていいでしょう。
ゼロポに還す「感じ(周波数)」がありますよ、というお知らせです。

意図=実現した像(夢)
という等式が成り立つ状態は、自力に依るのでも、他力に依るのでもありません。
このスイスイ波乗り感覚って、3次元にリアリティがある状態だとわからないんですよ。
「私」の感じて出現させている像が、
それが色やさわり心地といった五感的な濃い感覚であれ、
何かの考えや気持ちといった中程度の感覚であれ、
どれも自在に、勝手に動いていて、それでいて「私」の創造だとわかっている、
これは非3次元へと次元上昇したときの、3次元では見えなかった、自他力統合された第3の道です。
「まず自分から行動して道を開く」
「宇宙が動きだすまで待つ」
これらは自他力統合状態をカバーできない3次元のフレーズ、
つまり客体‐空間‐時間思考システムの枠内で表現した、
具体化に向かう力を自分か(私)、他者か(像、夢)、どちらか片側だけから表現した言いかたです。
客体‐空間‐時間思考システムの枠内だと、自分も他者も物体(客体)で、
「自意識付きの身体vs.環境」という形で分離、相克しているので、
自分から環境へ、あるいは環境から自分へ、もしくは相互にそれぞれ、
「働きかける」というふうにしか表現できないのです。
どちらも片側なので、裏側を表現し切れていません。
で、結果的に、自力依りだとがんばりが、他力依りだと忍耐力が必要な気がしてしまい、
人間ができてなくて性格もわるい私などはどっちもイヤで、
さりとて「日々の無事に感謝して丁寧に生きていく」的なところに落とし込むのはもっとイヤなんですが、
がんばりも忍耐も関係ないって、非3次元になるとわかります。
  1. 2019/09/23(月) 15:20:29|
  2. 実現のメタフィジクス
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見えているものは本当に見えているのか

2019.9.16(月)

見えている世界だけがすべてではない、
というようなことが、スピリチュアルな人たちの間では、しばしば言われているようだ。
おそらくこれは、
高次からのメッセージすなわち微妙な感覚で感じとれたことを翻訳したフレーズと思われるが、
私的には、この翻訳表現は詰めが甘い。
見えているもののほかに見えていないものがある、そんなのはたいしたことではない。
喫驚するのは、見えているはずのものが、じつは見えていると思い込んでいるだけで、
ちっとも見えてなぞいないということである。
いちばんわかりやすいはずの物理世界、サイキックな能力とかスキルとかがなくても、
誰にでも見えたり、聞こえたり、さわれたりするはずの世界が、
全然見えたり聞こえたりさわれたりしていないということ。
3次元とは、「3次元は物の世界だ」と考えている心の世界なのである。

物が見えていると思っている人は、見える前からそこに物があると思っている。
しかし「物がある(だからそれが見える)」というのは想定で、事実ではない。
事実は、線とか面とか色とか固さとか、何らかの感覚が現れているだけである。
それらの感覚を感じているとされている身体もやはり想定で、
事実は柔らかさとかシワとか痒みとか、質感の異なる感覚が束になって現れているにすぎない。
自分の身体、机、窓、窓の外の景色というのは、
柔らかさ、固さ、色、線、痒み、明るさ、音などの感覚が、途切れることなくつながっている現れで、
身体、机、窓、景色といった分割は想定である。
前者の、途切れることなくつながった感覚の現れというのが、一枚の像、一枚の夢である。
つながった感覚を出現させているのは、
それらの感覚を全部、当事者視点でまとめて感じている感じ手、夢見手の「私」である。
この「私」は、つながった感覚の統覚視点のことであって、身体ではない。
一枚の像のなかでは、身体というのは何らかの感覚の束であり、物ではない。
一枚の像のなかでは、机や窓といった物が存在しないように、身体も存在していない。
一枚の像のなかでは、身体、机、窓、景色は、感覚の連なりによって一枚につながっている。
一枚の像、一枚の夢は、何かが感じられるつど変化する。

柔らかさ、固さ、色、線、痒み、といった五感的な感覚の連なりでできた像には、
奥行き、内部、連続的な広がりといった、想定された空間がない。だから3次元ではない。
徐々に連続的に変化していくという、想定された時間もない。
だから物理学で定義される時空連続体としての4次元でもない。
しかし、「心でつくりあげた物体世界」である3次元を抜けた非3次元状態のうち、
最もはっきり感じられ、具体性があるのが五感的な感覚なので、
筆者の宇宙では、この五感的な感覚の連なりでできた像を「4次元」と定義している。
五感的な感覚は、思考や感情や気分の動きである中程度の感覚(マインド)や、
直感や直知が起きる微妙な感覚(高次)に比べて、
すごくはっきりくっきりしていて強烈である。これ以上明確にはならない。ここで底を打つ。
だから、微妙(直感など)、中程度(思考など)、五感的、と、
だんだん強く、はっきりしてくる諸感覚の階梯のなかでは、
五感的な感覚が、最終工程をへて完成した製品のように「終わり」なのであるが、
その「終わり」との出合いが、次元上昇のはじまりなのである。
次元上昇とは、「心でつくりあげた物体世界」を抜けて非3次元にシフトすることをいう。

感じられるままに感じられた五感的感覚と、それらが連なる一枚の像とは、
机が木の感触に、身体が皮膚の陰影に、景色が光の加減に、といったように、
物という概念が細分化されて感じられる世界ではない。
どこまで細分化されても、いかに繊細でも、物という概念を無自覚に前提にしている以上、
「心でつくりあげた物体世界」である3次元に留まっている。
つまり次元上昇とは、いわゆる「五感を研ぎ澄ます」ことではない。
柔らかさ、固さ、色、線、痒み、明るさ、音などの五感的な感覚を、感じられるままに感じるとき、
そこには、中程度の感覚(わくわく、エクスタシー、驚き、讃嘆、笑いとか)
微妙な感覚(閃き、一瞥、瞬時の撤収、一発整列とか)が載っている。
そこに降りているコヒーレントな(一貫した)感覚宇宙は、鮮やかで、圧倒的に瑞々しい。

これってなに? 言葉で言うとすれば、玄妙とか、幽玄とか?
そんな非日常っぽい畏まった表現じゃなくても、というのは妙に神秘がかってしまうからだが、
ただ「愉快」と言ってもいい。

見えるものがちゃんと見えていれば、見えないものなんぞはおのずと付いてくる。

「物がある。それを感じている」
という思い込みは、習慣に根付いていて、
思い込みだと気づいていなければ自明である。
「物がある。それを感じている」が自明な状態から見ると、
筆者の書いていることなど、ひねくれた戯言か、中途半端に哲学の本などを読んでいる人の
浅薄な勇み足としか読めないだろう。
「物がある。それを感じている」という自明さが、
情報の吟味や瞑想や何らかのスピリチュアルなワークなどによって徐々に薄まっていき、
「感じているこの感じが現れている(認識即創造、あるいは認識即存在)」に到達する、
ということはない。
「世界があるから私がある(心でつくりあげた物体世界=3次元)」から、
「私があるから世界がある(一枚の像、夢)」への180°反転は、突然起きる。
情報の吟味や瞑想やスピリチュアルワークなどが役立つのは、
反転後、習慣から脱却して、非3次元状態を定着させていくときであって、
どんなツールもメソッドも、反転そのものを起こすことはできない。
(反転ねらいでなければ、それぞれ何らかの効用はあると思う。)
「物がある。それを感じている」のが思い込みではなく自明な事実であるうちは、
見えないものが見えても、そのしくみを理解しても、サイキックな能力が開花しても、
着地する先は3次元というマインド世界である。

むろん、非3次元状態が3次元にリアリティのある状態より偉いわけではない。
単に全然ちがうというだけである。

さて、3次元時代の癖が剥落していくにつれ、
自分はただ存在していればいいのだということが得心できるようになった。
この「存在」という言葉が、
「物がある。それを感じている」に沿った(客体‐空間‐時間思考システムの枠内の)表現なので、
非3次元的には拙いのだが、
正確には「全感覚を感じて現前(プレゼンス)していればいい」ということである。
むかし、ガイドスピリッツから「あなたはただ存在していればいい」というメッセージが来たときには、
このフレーズが意味することのイメージは、
たとえば自分がある球技のチームに所属していて、
プレイヤーとしてはほとんど役に立たないものの、
自分がいることによってチーム全体の志気が著しく上がるから必要な存在なのだ、
というようなものであり、
自分だってたまにはすごいパスやシュートをキメたり、
でなければ画期的な作戦を提示したりしたいので、
「居ることが仕事」などど言われてしまうと、テキメンにテンションが落ちてしまい、
ともすると厭世的になったりもするのだった。
物(客体)があって、物が連続的に広がり、連続的に変化していく、という3次元ステージにいると、
「私」というのも身体や身体から派生する心理に限界づけられた体積存在で、
他の体積存在とのかかわりのなかでその役どころが見出されるので、
どうしてもそのようなイメージになってしまうのである。
が、非3次元に移行すると、
「全感覚を感じてプレゼンス」というのは、それだけでけっこう忙しく、
わざわざ連続的な時空間を想定して、
自分のミッションは何かしら、とか、どうしたら自分の能力を活かしつつ他者に貢献できるか、とか、
その類のことに思考を費やしているヒマはないのだ。
要は、余計なことを考えられないくらい、多様に楽しい。

あと、3次元フレームだと「大きな変化」「転機」「節目」ととらえられることでも、
あんまり変化とか節目とかいう感じではなくなる。
それより、微妙な感覚のちょっとした揺らぎ、様変わりに「わ!」と衝撃を受けたり。
  1. 2019/09/16(月) 16:13:45|
  2. 次元上昇
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