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ソロ・パブリッシュ

エア充。

仮想集合システムの話のつづき

2018.8.17(金)

仮想集合システム(客観世界観、多数派世界観)というものを、簡潔に表現すると、
それは「ここにないものをあるとする世界観」である。
ここにないものとは、シンプルに眼前にないもの、「私」が感じていないもの、
すなわち記憶とか知識とか、記憶や知識による解釈とかである。
仮想集合システムは、記憶や知識を、
「かつてあったこと」として実在に繰り込むとともに、
「私」が感じていなくても「裏側や内部や遠くにあること」として実在に繰り込む。
時間という思考、空間という思考が、「私」の感じていないものの実在を支えている。
ないものをあることにできるのは、
大元に「“私”に先んじて(客体からなる)世界がある」という客体思考があるせいだ。
「私」より先に世界があるのだから、「私」が感じていようがいまいが、世界はある、
世界は「私」とは関係なくそれ自身の法則をもつ、と言うことができる。

シンプルになれば、「私」が感じている場面以外は何もない。

むろん、ここで「ある」「ない」といっているのは物理実在のことだから、
物理実在でなく、身体感覚にならない思考として、記憶や知識は存在する。
記憶や知識は「かつてあったこと」でもなければ「裏側や内部や遠くにあること」でもなく、
思考(思い、考え)である。

「記憶」という言葉には「かつてあった」ニュアンスがつきまとうが、
記憶は端的に物理実在ではなく思考であり、
視覚イメージや音や触感、何らかの「感じ」からなる非物理データである。
なので、仮想集合システム内では「一度も経験していない」場面が、
既知感をともなって、「記憶」と呼ぶにふさわしいデータとして想起されることもある。
知識についても、「まったく学んだことがない」方法やツールや見解が、
既知感をともなうデータになることもある。

記憶や知識を、仮想集合システムからリリースし、
空間思考、時間思考からくる物理実在性という幻想に囚われなくなったとき、
幼少時とか数年前とか昨日とか、数年後の予想未来図とか老後とか、
そうした「人生」尺度をはるかに超える
時空間リミットなしのデータがアクティベート(賦活化)される。
それらは、シンプルに「私」が感じている場面に、和音のように重なっている。

時空間リミットがないので、半時間前の記憶よりもリアルに異界や別世の記憶が
前景に出ているときもある。
そういうとき、半時間前の記憶はスッと遠のいて淡くなるか、消えてしまう。

その重なりは、豊かだったり、明晰だったり、深閑としていたり、躍動的だったり、
「私」視点がつくりだしている場面によってさまざまな調性を帯びる。
過去を回想したり、未来に思いを馳せたりしたときの悲喜こもごもな感情の豊かさとは、
私比では、はっきりいって比べものにならない。
しかしながら、その重なりは、芸術的といっていい、と同時にきわめて実用的で、
仮想集合システム内で「日常」と呼ばれる用事、用件とがっつりリンクしている。
実行に移すべきことがあれば閃きランプが点灯するし、
考える隙なくダイレクトに行為へと下りることもある。
宇宙ってほんとにムダがないわ。タメもないわ。グッドジョブwww
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  1. 2018/08/17(金) 16:21:40|
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仮想集合システムの三本柱

2018.8.14(火)

以下の①~③は、仮想集合意識システムの三本柱である。
仮想集合意識システムなどというオカルトめいた名称が嫌なら、
一般的世界観とか客観世界説としてもいいけれども、要は多数派世界観である。

厳密にいうと、その多数の人というのは私の主観世界にある概念である。
私が自身の主観という視点をはずせないにもかかわらず、
自身の主観世界に多数派の見解が存在していて、
そのいわば“脳内不特定多数の人々”が「これが普遍の法則だ」と言っている。
私が、私の身体感覚も含めて主観世界でしかないにもかかわらず、
コントローラーがその外にあると、自分で思い込んでいる。
これは、自分の家に「ここはきみの家じゃない」と云う人を大勢住まわせていて、
「彼らの云うとおりだ」と思っているのと似ている。
つまり、多数派世界観は自分で自分の意識に仕掛けているからくりで、
このからくりは「多数」と多数に共通する「普遍性」に支えられているので、
私はこれを仮想の「集合」意識のシステムと呼んでいるのである。

①客体思考
・世界は根本的には物体で構成されている。
・まず物体があって、自分の主観は物体としての身体から派生したものだ。
・物体は独自の法則で動いているので、物体である身体や、身体に還元される主観も
物体の法則に制約される。
・物体で構成された世界には、自分、大勢の人、動植物、無機物といった数多の物体があり、
どれも物体独自の法則にしたがう。
②空間思考
①の結果、誰にとっても同じ客体世界が存在するので、自分が見たりさわったりしていなくても、
眼前の物理光景から推測できるような物理光景が広がっている。
例)ニュースの映像の向こうにはその出来事が実在する。
  自分が実際に見たりさわったりしていなくても身体内には臓器が実在する。
  観測機器で観測していなくても、原子や細胞などは実在する。
③時間思考
・誰にとっても同じ客体世界は、客体(物体)独自の法則にしたがって変化する。
・したがって客体世界の現状以前には、現状に至るまでの状態(過去の状態)が実在した。
しかし以前の状態に戻ることはできない(不可逆)。
・客体世界が現状に至るまでの推移状況から、まだ現れていない変化(未来)を予測できる。
・客体世界の状態は、過去から現在に至り、未来に向かうにつれ、客体独自の法則にしたがい
不可逆に減衰していく。
例)人は誕生して、成長し、成熟し、老化して、いずれは寿命が尽きて死ぬ。
  実在した過去の状態を経過順に並べた「人生」は実在している。
  生まれる前には過去世が実在し、死んだあとには来世がつづく(「人生」の延長バージョン)。

この3つは、さまざまな思考、感情、気分のベースになるメタ思考で、
なかでも①は②と③の根拠となる大元である。
①の客体思考とは、「私に先んじて世界はある」という考えかたである。
私の誕生前から世界はあり、死後にも世界はつづく、つまり私は誕生によって世界のなかに
投げ込まれ、死によって世界から去る、と考える。
この記事では、その世界の本体(客体)を、多数派見解にしたがって物体としたが、
べつに「意識」でも「精神」でも同じことで、
これは「私以前に客体X(でできた世界)がある」という思考なのである。

「私」は、さまざまな感覚、思いを受けとり、統合的な世界像にまとめている当事者視点、
統覚意識のことで、
私は通常の意識状態でも、変性意識状態でも、眠っているときでも、
仮に別人と入れ替わることがあるとしたら入れ替わっているときでも、
当事者視点で何かを感じていたり、何も感じない状態にある(眠っているときなど)ので、
「私」というこの当事者視点は不動である。
「私」が「みけ」でも「さる」でも「きじ」でも、誰であっても、
当事者視点で感覚や思考などを総合する「私」という形式は1つしかなく、
「私」を通してしか世界像は結べない。
仮に精密な機器で原子とか細胞とかを観測しているとしても、
「私」あっての観測行為であり、観測結果であって、
「私」に先んじて観測対象がある、などということは、ありえない。
私が「私」という当事者視点でしかないということは、非常に単純なことだ。

なのに、「私に先んじて客体Xがあり、私という当事者視点(主観)は客体Xに属する身体の
反応から派生した現象である」という転倒が奇妙だと思われないのは奇妙である。
奇妙だと思ってしまうのは、私が中二病だからであろうか。

「私」に先んじて客体である世界がある、という客体思考は、
「自分の思いどおりにならない状況」にぶつかって証明されるかにみえる。
じつはこう考えるとき、
「私」という当事者視点を何かの思いと同一化するというカテゴリーエラーが起きているが、
「私=思い」として(本当は「私≠思い」)、「私=思い」の想定していない状況が生じた
原因として客体X(世界)を設定すると、
客体Xは「私=思い」と関係なく独自の法則で動いているのだから、
客体Xが自分の思いどおりにならなくても当然であるという説明がつく。
でも実際に起きていることは、
a.状況がこうなってほしいという思いがある。
      ↓ (一般的にいくらかの時間推移があるとされる)
b.何らかの物理事実からなる、または物理事実から推測される状況がある。
c.bの状況がaの思いとちがっているという思い(判断)がある。
d.思いと状況のずれを不快に感じる思い(感情、気分)がある。
ということで、aとbの間の時間推移も含めて、a~dの全部が「私」視点で受けとられている。
状況が思いどおりになろうがなるまいが、「私」という当事者視点の範疇内なのである。

また、「私」「あなた」「誰それ」「猫」「机」といった言語上の区別は、
音声や文字の組み合わせをちがえることで、
音声や文字の組み合わせの意味が及ぶ範囲を限定してそれぞれを区別し、
この区別に先んじて、区別という作業の対象になる客体があると思わせる。
「言うは易し、行うは難し」とか「口では大阪の城も建つ」といったことわざが示すように、
言語は客体思考の原因になるほど強力ではないが、客体思考を補強している。
しかし、「私」「あなた」「誰それ」・・・と区別している、その当事者は「私」なのだ。

「私」視点の外にコントローラーがあるとする仮想集合システムは、
いつ、どこで、どのようにしてできたのか、と問うことはできるが、答はない。
この問い自体が「時間思考(いつ)」「空間思考(どこで)」「客体思考(どのようにして=
誰の、何の所為で)」という仮想集合システムの三本柱に拠っているからである。
宇宙のはじまりとか、およそ起源を求める問いは、
必ず「では、その前は?」という形で無限後退していってしまう。
それは、この起源という発想自体が仮想集合システムの枠内にあって、
システムに沿ってアウトプットされてくるからである。
仮想集合システムが「ない」世界と「ある」世界との変わり目を見るには、
最も感覚的刺激がはっきりしている物理光景(一般的な表現では今ここの物理光景)に、
そことかかわる全データを感じとれる状態、
つまり過去の体験とか過去世とか別世とか何かの歴史的情景、異界の風景などなどが、
現在との重なりとして、和音のように感じとれる意識状態でなければならない。
そのときはじめて、「(垂直に重なるデータの)このあたりからシステム化されている」
とわかる。
それは、重なりの1つ1つを立体光景として思い出すということではなく、
物理光景を含むその全体の響きを感じとることをいう。
ミルフィーユやバウムクーヘンのようなお菓子を、1枚ずつはがしてではなく、
層ごと食べて全体を味わうように。

ただ、これを言葉や絵などで表そうとすると、言葉や絵などは仮想集合システムを前提
とする道具(前述の重なりでいうと、システム化のあとから出てくる道具)だから、
直接には表せず、比喩や物語パタンを借用した喩え話にせざるをえない。
私も電子本『Starry Souls』(ブログ右「出版案内2」)で仮想集合システム成立の経緯を
書いたが、これは私版のアストラル話である。
この種の情報に接するさいには、ソースコード(信号)の「感じ」をとらえることが大事で、
言い換えるとソースコードの「感じ」さえとらえられれば、あとはどうでもよく、
伝記や歴史書やドキュメンタリーと同じベタ事実感覚でとらえていると、
「太古の地表を大天使がのしのし歩いていた」式の次元混同に陥る。

では、自分が仮想集合システムに囚われて、すっかりシステムどおりに作動していながら、
なぜシステムにハマっていると気づけるのかというと、
大元の客体思考にムリがあるからだ。
私がおじさんでも女子高生でも小学生男子でも亡霊でも、私は「私」視点でしかなく、
「私」視点で何ごとかを感じるとともに、感じる対象である世界が現れる、
にもかかわらず、システムは「私」視点の向こうに客体Xがある、
感じるより先に対象があると、思い込ませなければならない。
眼前の光景が「私」視点で感じて構成されたものであることは、
「現にそうだ」ということで証明オワリだが、客体Xは証明できない。
ここに仮想集合意識システムの脆弱性がある。
過去の連なりを、物理光景と同じ濃さ、大きさの立体光景としてとり出せないことや、
遠くの場所、裏側、内部を、「私」視点を変えることなく出現させられないことも
脆弱性である。

システムの仮構性への気づきを促すのは、
地球はまるいと教わり、映像や画像で「地球」といわれるものを見た、けれども、
自分が立っているここはまるくないようだ、
といった類の、多数派的に「ばかげた」「イタい」センスである。
  1. 2018/08/14(火) 17:26:37|
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スプリットとその先

2018.8.8(水)

以下は、私の主観世界即宇宙に映像や音声、画像、文字で入ってきている
マスメディア情報の話である。
昭和のむかし、心霊や超能力をテーマとするテレビ番組が、一視聴者として見る限り、
とくに検証の視角を差し挟まずに、夏の定番ものとか流行(ユリ・ゲラー氏の来日など)を
背景としたエンタメのひとつとして、比較的のんきに放映されていた時期があった。
前世紀の終わりには、地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教関連事件の影響で、
マスメディアは「オカルト」に対して慎重になり、この種の制作物は下火になって、
とり上げる場合には批判的視点を入れるというお約束みたいなものができあがっている
かに見えた。
ところが、私は一、二回、チャンネルを替えるついでにしか見たことがないが、
「オーラの泉」という番組がはじまったくらいから徐々になし崩しになって、
それでも批判的論調と併立させてバランスをとっていた(?)感があったのが、
いつのまにか批判的論調を置いてきぼりにして、「オカルト」コンテンツは復活していた。
「オカルト」はしぶとかった・・・。

批判派の論拠は現代の自然科学のようであったが、
物質還元主義というのは科学というよりは思想で、
自然科学者たるもの、この思想に立って研究せねばならんと決まっているわけではないし、
さらには、前世紀以降の自然科学は、仮に「すべての事象は物質に還元される」とすれば、
「では物質は何に還元されるのか?」「物質の向こう側はまだ物質なのか?」
という域に入って、19世紀のころのような明快な解が出ず、諸説紛々としているのである。
マスメディアのうえで批判的論調が「オカルト」に抗しきれなかったのは、
マスメディアが視聴率や部数を上げるために要求する単純なわかりやすさを忖度して
しまったせいかもしれないが、
自然科学を魅惑的にしているその未完成性を封じて、
教科書的な自然科学観の提示に終始しためであるように思う。
結果的に、「学校でそう習ったし、みんなそう言っている」的な漠とした多数派意識に立って、
心情的に「オカルト」を嫌っている(これは好き嫌いの問題であって、まちがっていない)、
とくに科学的でもなければリアリストでもない視聴者層、読者層に迎合する形になって、
失速してしまった。

先日、UFOのエンジン音(?)を「ゆんゆんゆん・・・」という擬音で模してUFOを呼ぶという
武良信行(むらのぶゆき)@武良ラムゥ(宇宙名)氏をテレビで拝見していて、
私のマインドで、そんな記憶がリニア時間形式で、走馬灯のようにフラッシュバックしてきた。
また、数日前のネットのニュースで、北海道のどこかの町では真昼間からUFOが飛来、
町の多くの人たちが目撃し、馴れっこになっているとの話を動画つきで見た。
前世紀末からゼロ年代にかけてであれば、
武良さんのような方がマスメディアに出演すれば嘲笑、いじりの標的になっていたと思うし、
そのような町での現象がニュースとしてとり上げられることもなかったのではないか、
と思うと、なにやら感慨深かった。

高次情報によれば、「2016年秋~2017年は、客観世界(仮想集合システム)のシステムを
暗黙に絶対条件として受け入れている意識(人)と、そのシステム性、仮構性に気づいて
離脱可能としている意識(人)との決定的分離、スプリットの時期であった」そうだが、
私には、そうそう、そうだよね、とうなずけるような実感はない。
しかし、それはここが分岐点だったと特定できないだけで、
気がついたらいつのまにかそうなっていたという形で、スプリットは起きていると感じる。

「オカルト」を嫌いな人がいなくなったとは思えないし、批判もなくなったわけではない。
もっと堅実で丁寧な批判コンテンツも、探せばあるかもしれない。
しかし私のマインドの印象では、「オカルト」に寄る人と、そこから距離を置く人とは、
もうお互いに相手にしていない感じがある。
split(裂け目、ひび)は広がり、距離ができ、交わらず、棲み分けの状態となったような。
両者は出合っても、互いに「あ、そうですか」と目礼してすれちがっていく。
両方とも、それぞれの関心ごとに専心していて、相手を説得したり巻き込んだりしなければ
ならないような集合体、<ザ・社会>を、もはや想定していない。

一方、「オカルト」を是認する側の受け入れかたは、昭和のむかしとはちがう。
昭和のむかしには、「オカルト」はどこか「遠野物語」的で、異界の非日常色が濃厚であった。
超能力者とか霊能力者というのは、何か特殊な能力をもつ別世界人という扱いだった。
でも昨今の「オカルト」は、これはネットの普及でネット的になったといってもいいと思うが、
何かの拍子に誰でも当事者になりうる現象として語られるケースが多い。
自分は霊が見えるとか、幽体離脱するとか、スプーンを曲げられるとかいった人が巷にいる。
意図して発揮できるのではないが、UFOを見たとか、亡くなった人に会ったとか、
何らかの不思議現象に遭遇した経験がある人を含めれば、
さして珍しくもないかもしれない。
また「オカルト」を是認するといっても、「そういうことがあってもいい」「面白い」とエンタメ寄りで
接している人から、自らヒーリングだのチャネリングだの異界人コンタクトだのにハマり、
自宅にクリスタルとかオラクルカードとか楽器のチューニング目的ではないチューナーなどが
当たり前のように置いてあったりする人まで含まれ、温度差がある。

ところで、スプリットは「オカルト」を是認するか否かによってではなく、
仮想集合システムである客観世界を暗黙に絶対条件として受け入れているか、
言い換えるとこれを疑わないか、
それとも客観世界の仮想システム性に気づいて離脱できるとしているか、によって
起きたのであった。
だから、「オカルト」にとくに関心がなくても、客観世界を前提とする諸法則から逸れる現象を、
思考や感情で排除せずに現象として認める意識(人)であれば、
否応なく離脱サイドに振り切ってしまう。
ただ私見であるが、「オカルト」免疫ゼロで離脱サイドに向かうケースは稀有だと思う。
かなり思考が柔軟な人でも、人が誕生して成長して成熟して老化して死ぬ、とか、
自分が知覚できない場所というのも存在していて何らかの出来事が起きている、
といったような、日常感覚にぴったり張り付いている、というか、
見えないところで当たり前の日常感覚の柱や梁になっている時空間シバリには、
非常に気づきにくいからである。
反対に、「オカルト」に通じていても、客観世界の仮構性に気づいていなければ、
それに気づくまで客観世界の枠内にいて、
客観世界の時空間法則で動く日常に、ときおり「オカルト」の非日常が射し込むという
二重性にとどまるだろう。

長々と「オカルト」の動向について述べたのは、
「オカルト」現象では客観世界の法則を逸脱する「メタ」フィジクスが顔をのぞかせるからである。
だが「オカルト」の知識や、記憶化した不思議体験の多少は、
スプリットの起因とは関係ない。

客観世界の仮構性が見えたその先に、統一見解というものはない。
なぜなら、そこはもう「誰にとっても同じ」客観世界ではないからである。
統一見解とか正統とか主流とかいう尺は、
「誰でもわかる」「誰にでも伝えられる」ことを前提とした客観世界の思考である。

現に、上述の温度差分布で高温度帯にいる人たちは、私もそうだけども、
それぞれ勝手なことを言ったりやったりしている。
一部の高次entityは、<人類>という仮想カテゴリを借用して<地球惑星人>に変容する、
つまり客観世界を脱して地に戻ったら自然に惑星人としてのまとまりができる、
という構図を描いていたが、
あにはからんや<人類>の地はそこまで均質ではなく、むしろ坩堝だったのであるよ。
渡り鳥だったら、ある時機を感知すれば一斉に飛んで渡るけれども、
<人類>は渡り鳥みたいにはできていないのだ。
といっても、ずんずん高次に昇っていけばどうせワンネスに帰してしまうんだけど、
かなり高くならないと、そのちがいは大枠に統合されず、
いわば古今東西南北あらゆる種類の音楽が混在していて、
「音楽」という概念をもってきてはじめてひとつにくくれるような状況なのである。
これはべつに嘆かわしい状況ではない。
変に予定調和に走ると本音を隠したいびつなまとまりになってしまうんで、
自分の宇宙色をごまかさずに、ありのままに観察/創造することがキモなのだ。
本当のワンネスを響かせるのは、個々のわがままである。

と、ここまで書いておいて、
「でも、さ、契約書とか支払いとか健康保険とか家族とか、いろいろ、
社会のインフラは依然として客観世界デフォルトで機能してるじゃん?
なら、ここから抜けたとしても、各人が自分宇宙の道理に沿って好き勝手やってたら、
これに替わるしくみが立ち上がらないんじゃないの?
だとすると、意識は仮想集合システム(客観世界)から離れたとしても、
物理像(物理世界)では依然としてインフラ部分で客観時空に制約されて、
かえって生活しづらくなるんじゃないの?」
と訊いてみたら、
「“私”に先んじるどんなしくみも存在しない」
「社会、社会のしくみ、制度、慣行などは、マインド(主に思考)で解釈し編集した
物理像の存続、運営を目的とするマインドの産物で、物理像ではない。
物理像は“私”が体性感覚を総合して観察/創造している像で、
唯(ただ)そのようにあるだけであり、いかなるしくみもなく、制約もない」
「マインドに組み込まれた仮想集合システム(客観世界)を通して解釈、編集した
物理像の像を管理して、像じゃない物理像をコントールした気になっているのは
マインドに組み込まれた仮想集合システムなんだから、
このシステムをはずせば管理は終わる」
「仮想集合システム(客観世界)なしの本来の個体即宇宙に回帰してから
それに替わるしくみを立ち上げるとか、立ち上がるはずだとかって、
泳げるようになったのに浮き輪を探してるのと似てないか?」
・・・等々、高次屋さんたちの全方位一斉送信にペッタペタにやられてしまいました。
  1. 2018/08/08(水) 16:03:07|
  2. アセンションについて
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なぜ、変化の瞬間はわからないのか

2018.8.2(木)

いわゆるアセンションの動向についての、ソフィア@シリウス、モナ@アルクトゥルス
とのチャネリング鼎談です。

みけ スピリチュアルな説のひとつに、客観世界と画一な時空間シバリは、当面、
といっても千年単位くらいの時間で、まだ存続するという考えかたがあります。
先ず誰にとっても同じ客観世界があって、そこは誰彼の視点に関係なく同じ空間構成で
できていて、生滅の方向をもつ変化が過去、現在、未来とつづいていくと。
そこに各人が誕生という形で投げ込まれ、80~100年くらいの時を過ごして老化して死に、
また生まれ変わって投げ込まれると。
幾たびものその客観世界経験を通して、人間の「魂」は成長していく、とされています。
意識が広がって、この客観世界の外に気づいたとしても、客観世界は変わらない。
客観世界の外からもたらされる情報やヒーリングのツールとかは、
個人や集団の生活の向上、改善に役立つけれども、客観世界とそのルールの制限の
範囲内で役立つのであって、それを超えることはないんです。
こういう制限つきの世界を、目的論的に「学びの場」と呼ぶ人もいます。
ソフィア@シリウス それも1つのモデルだね。
フィジクスを含むメタフィジカルな宇宙のモデルに誤りはないんだから、それもあり。
でも、あなたの宇宙モデルはそれじゃないんじゃないの?
モナ@アルクトゥルス 学びとか魂の成長とかってプレイなのよ。
そういうプレイをやりたい人は、それに適した遊び場を宇宙モデルとして創造する。
「テーマ」パークみたいに。
みけ 私の宇宙モデルでは、意識が広がるってことは、“私”が単純な観察/創造意識に戻る
ってことだから、“私”の観察/創造なしにあらかじめ存在している物質とか精神とかっていう
客体はなくなります。“私”に先行する世界はないってことね。
宇宙は完全に“私”の主観世界だから、誰にとっても同じ客観世界もなくなる。
変化をプロセスとしてとらえるとか、
作業仮説として、たとえば身体の内部やドアの向こう側を設定して作業するとか、
時間や空間をツールとして使うことはあっても、それは自分の宇宙に適用するんであって、
強制適用ではない。強制適用じゃないから、ルールじゃなくてツールなんです。
モナ そのモデルではどんなプレイができるの?
みけ いったん物理像とマインド帯域だけに“私”を制限しておいて、
制限をはずしたときに、既知のことが新たなこととして現れるさまに驚くっていうゲーム。
思い出し、再会のゲーム。
タイムカプセルに入れた物を何十年もたって開けるってのに似てるかも。
再会のつど、驚きや喜びはあるけど、そこに「学び」「成長」っていうベクトルはありません。
ソフィア 他者との関係はどうなっていますか?
みけ 他者っていうのは自分の宇宙に住んでいる、他宇宙の自分バージョンの相です。
物理像にいない他者は、マインドで思い描いたイメージだから、周波数帯域がちがうし、
物理像とマインドを行き来する他者は、そのつど別人で、一期一会。
で、<人類>とか<日本人>とかは、個人のマインドにある集合体の概念です。
『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)を読んでいて、それがすごく腑に落ちました。
次男のイワンはすごく<人類>のことを気にかけてるけど、
それはあきらかに彼の脳内人類です。彼の云う人類って自分のことなの。自覚してないけど。

ソフィア では、汝即宇宙であるあなたは、音声や文字などの情報として現れている別の
宇宙モデルを、なぜ放流してしまわず気に留めているの?
みけ そうですね・・・私の宇宙モデルには「学び」も「成長」もないし、
客観世界がはじめから成立してなくて、思い込みだったってこともはっきりしてるんですが、
何らかの制限、制約がまだ千年単位でつづくってとこに、
それがないとはいえないという、一抹の説得力を感じるから、かなぁ。
物理学でも、量子現象とか時空の歪みとかが出てくるのはミクロかマクロの世界で、
日常の生活世界では古典力学が通用するってことがあるんで、
そう簡単に一律にはならないんじゃなかな、っていう。
強引に統合しようとすると机上の空論になるような気もして。
ソフィア 日常の生活世界って何?
みけ う・・・。
ソフィア あなたの云う日常とか生活というのは、こちらから見ると、数日程度の記憶の束に
見える。それはマインドで、思考で組み立てているもので、物理現象(物理像)ではない。
物理現象には「日」も「常」もないんだよ。
みけ おっしゃる通りですorz 日常生活というのは物理現実じゃなくて、マインドの、思考で
組み立てているもので、それに「あーこんなもんか」「まーこんなもんだろう」っていうような
マンネリ気分反応がくっついた心理的な実感です。
だけど、数日程度の記憶の束をマインド現実じゃなくて物理現実だとみなしたほうが
実用的っていうか便利っていうか・・・。
モナ ソフィア、あなた、カオが怖い。般若みたいよ。
ソフィア ・・・これがナチュラルな表情なのだが。
モナ あれじゃないの、ほれ、セルフ方式のアセンションって、キタ! とか、キクー!って
のがなくて、自然治癒みたいなもんだから、実感しにくいんじゃないの?
みけ そうですね。16年の秋以降、スプリット(客観世界の枠に気づかない人と、気づいて
離れる人との決定的分離)が起きるとか、17年の夏、冬にも何らかのシフトがあるとか、
音声や文字の情報では云われてましたが、私にはとくに何も起きていないような。
ただ浮世離れが進んでることはたしかです。
私にとっての物理像‐マインドは、以前から客観世界の世俗とはズレてましたが、
もう全然関係なくなっちゃって、
たとえば通販サイトのお奨め商品みたいなのは全然ヒットしなくなっちゃった。
ソフィア じゃ、スプリット起きてるじゃん。
みけ あ、そうか。あーーーー、そういうこと!
ソフィア そうしたお奨め商品、あるいは1日にこれだけの野菜を摂るのが望ましいとか、
何歳になったらこういう病気のリスクに備えよう、
これこれの仕事をしたいならこの資格を取ろう、こうして売り込みなさいとか、
何でもいいが、マインド現実を物理現実とみなすことを前提としたその種の情報が、
あなたにとって、実用的で便利ですか?
みけ あー、だめです、全然。
ソフィア いくつもの任意のデータを時間形式で「数日程度の記憶」としてリアルに実感する
というマインドウェアを使っているとしようか。
このウェアのOSは客観世界のOSと同じだから、“私”に先んじてまず世界があって、
その世界は切れ目なく連続的に、生滅のベクトルをもって変化していることになっている。
そうすると、変化の瞬間の場面というのは決してやってこないんだよ。なぜだかわかる?
みけ アウトプットされる情報が何日から何日までっていう、切れ目なく連続した記憶の束で、
常に束としてしか把握できないから?
はっ、と意識した場面は直近の過去で、その直近過去場面に数日前からそこまでの
記憶の束が尾ひれみたくくっついているっていう。
ソフィア そう。客観世界というのは私たちのいう仮想集合システムのことなんだけど、
このシステム下でリニア(線形)時間形式に沿ってデータを開いてると、
どんなデータも束になった過去として情報化され、認識される。
つまり、このウェアを使っていると、マインドは結果(過去情報)しかわからない。
たとえば、病気から回復した瞬間というのはわからないわけ。
みけ あー。検査機器を使ってずっとモニタリングしていれば、病巣が消えていく映像って
撮れるかもしれないけど、どこまで細分化しても必ず幅があるから、
厳密には消えた瞬間は特定できませんね。
なんか、「飛んでいる矢は、飛んでいる各瞬間には静止しているから飛んでいない」
っていうゼノンのパラドックスみたいだけど。
それに、病巣がそのままでも、なぜかみるみる元気になって、問題ではなくなるという
治りかたもあるし。
ソフィア ある場から別の場へ移るというのは、“私”の観察/創造視点が移ることです。
この移行は連続しておらず量子跳躍的で(1→2→3→4・・・7と徐々に移るのではなく、
1から突如として7に移ること)、客観世界のシステム下にいて理解できることではない。
「瞬間」という言葉が帯びている高速度のイメージも関係ありません。
時空の制約がはずれるのだから、「ゆっくり」とか「止まっている」と云っても同じ。
モナ だからさ、自分がものごとを客観世界のフレームでとらえてるのを自覚してることが
とっても大事なわけ。気がついてれば、それがただのフレームだと相対化されて、
気づけば即そこから抜けられるから。
決まったフレームからはずれてれば「瞬間」がわかるし、逆にいうと、
「瞬間」がわかるときがフレームからはずれてるとき。
みけ あ、その「自分即宇宙」とか「観察即行動」というときの“即”って言葉は瞬間ぽい、
量子跳躍的です。
ソフィア アセンションでは、物理現象とか制度とか考えかたとか気持ちとかが変わるのでは
なく、それらを成り立たせている土台が変わる。
土台とは、物理像もマインドもそれを超える帯域もすべて包摂する意識、宇宙です。
その変化は、客観世界が存続するという見解も含められるほど、一斉的、集合的ではない。
だから徹底的に個人的なことなんだよ。
そして、どんな応用技術、実用性も、土台となる宇宙にもとづいているから、
どういう情報、思考ツール、物資が実用的かということも、人によって異なるようになります。
たとえば画期的な防寒ウェアが開発されたとしても、
真冬でも薄着で快適に過ごせる人にとっては関係ないでしょう?

<近年のアセンション年表(笑)>
2012~13年 一斉アセンション方式の中止。セルフ方式へ転換。
2014年 象徴的表現:土星評議会の制限撤廃。
高次帯域の波動は、客観世界(=仮想集合システム)の法則に適合させて
実現させなければならないとする制限がなくなる。
→奇蹟や超能力が特別なことではなくなる土壌ができる。ヒーリング、リーディング能力
などが発現しやすくなる。
2015年 客観世界(=仮想集合システム)が強制適用ではなくなり、離脱が自由になる。
→瞑想状態、変性意識に入りやすくなる。気づきが増える。「悟る」のが易しくなる。
2016年 客観世界(=仮想集合システム)のシステムを暗黙に絶対条件として受け入れて
いる意識(人)と、そのシステム性、仮構性に気づいて離脱可能としている意識(人)との
決定的分離、分裂。
2017年 象徴的表現:アセンション支援合議体による集合的啓発活動の終了。 
→客観世界(=仮想集合システム)の仮構性に気づいた意識(人)がさらに分化、
多様化する。客観世界の下に潜在していた坩堝性の表面化、指標(お手本)の喪失。
2018~20年 多様な宇宙モデルの揺籃。
  1. 2018/08/02(木) 17:01:07|
  2. アセンションについて
  3. | トラックバック:0

ポコポコ実現

2018.7.27(金)

2018年の6月半ばからしばらく、「実現」というテーマについての記事がつづいたので、
「実現のメタフィジクス」として、1つのカテゴリーにまとめた。
通りすがりにご覧になった方に、何らかの参考になればさいわいです。

言葉は、見えもさわれもしないが比較的自覚しやすい思考、感情、気分(マインド)に
対応する道具なので、言葉にするとどうしても七面倒くさい表現になりがちですが、要は、
ふっ、と浮かんだことが、ポコポコと実現しやすくなるということです。
その前提は以下の3つ。
①Zero Point Fieldとつながっている
ZPFとつながることは②③を促します。
②“私”が澄んでいる
“私”意識(エゴ、自我)のスジてっぺんから地面まで通っていてブレておらず、
どんな思いとも、entityとも同一化しておらず、夾雑物が混じっていない。
③コヒーレンス
見えない宇宙の各層と見える宇宙とが相似形で重なっている、コヒーレントである。

実現というのは、コンセプトがデザインや仕様になるとか、それがさらに製品になるとか、
上位の段階が、より具体的になることなので、
物理像で、物や出来事として現れるケースばかりではありません。
マインドで、考えや気持ちやイメージとして「わかる」という形で具体化するケースもあるし、
夢のなかで具体化したことがヒーリングになっているケースは多々あるし、
高次帯域で、もっと漠としたエネルギー的な感じで具体化することもある。
Zero Point Fieldのフォースは、それぞれの帯域の“私”の観察/創造によって、
それぞれの帯域に適した形で具体化する。
で、コヒーレントなときは、高次の“私”の挙動なんか全然自覚してなくても、
勝手に最適な具体化が起きる。

で、ふっ、と浮かぶことが「~が欲しい」「こうなったらいいのに」「こうなりますように」
といった、願望形とか仮定法願望形みたいな形をとることもある。
“私”を軸とする個体宇宙がコヒーレントなとき、やってくるそうした願望形は、
もう充ち足りていなかったり感謝が足りなかったりする兆候ではないんで、
放っておいていいのです。放っておけば、適した時機に実現します。
引き寄せ工作が必要なら高次屋さんたちが勝手に仕掛けてくるし、
何か行動が必要なら、一念発起しなくても身体が勝手に動く。

“私”が「中年の男性」「主婦」「こういう性格」「これこれの実務経験がある」といったような
限定的なセルフイメージと同一化しているときに抱く欲求や、
何かの思いに同一化して自己犠牲的な献身モードになっているときの利他的欲求は、
究極には自身による自己承認に必要な要素を充たそうとして、
悩みや欠乏にもとづいて発動されるので、
欲求にストレス感や焦燥感が混じっています。
どうしてもこうあってほしいとキリキリ念を込める感じ(「昨晩捨てたあの部分だけはテストに
出ませんよーに!」と祈るときのあの感じ)とか、
ハズレたときの凹みを和らげるために、あらかじめ「やるだけはやってみる」的な諦めを
まぶしておくとか、
実感的にいってズッシリ重かったり、翳りがあったり、どこか輝きがないんですわ。
フィクションでもノンフィクションでも、ドラマのネタになるのはこういう欲求ですが、
①②③の前提ができていると、こういう欲求が渦巻く世界とは縁がなくなります。
興味がなくなるので、袖も擦り合わなくなる。

①②③の前提ができてるときに出てくる欲求は、
煩わしくも悩ましくもないんで、煩悩ではありません。
それが唐突でも、かつてどこかで願ったことの差し戻しでも、ベタベタに生活密着系でも、
無邪気で、軽やかで、「えーこれかよ」って、ちょっと笑える感じもある。
『夏の夜の夢』の妖精パックとか、ムーミントロールとか、
人外系フェアリー族のメンタリティに近い感じがする。

実現の原則は、「既に(上の次元で)成っていることが成る」です。
物理像が最終形となる場合、
高次帯域にデザインがあれば、マインド帯域にはそれに呼応する仕様書があり、
両者が相似形でそろって、相似の物理像へ跳ぶ(量子跳躍する)はずなのに、
マインドがねじれこじれしていたんで、
受け皿となる仕様書がどっかに雲隠れして出てこず、
保留になってる案件が多々ある。
「欲しい」とか「こうなったらいいのに」という願望形は、
デザインに対応するその仕様書を呼び出すコマンドです。
仕様書とは、物理像で実現したときのイメージのことです。

波動が具体化する案件の数は、
 高次帯域 > マインド > 物理像
の順で多く、
1つのコンセプトに対して多数のデザインが、1つのデザインに対して複数の仕様書が描け、
最終的に製品に落とし込まれるのは1つであるのと同じように、
上位次元になるほど実現ポテンシャル(可能性)が余っていて、
「もしも」の余地がたくさん含まれています。
そのなかで、物理像が実現のゴールになる案件(下記のA)については、
 高次帯域A-マインドA-物理像A
という相似関係でそろえる必要があり、
マインドの仕様書(物理像での実現イメージ)をすっ飛ばすわけにはいかない。
なので、「欲しい」「こうなったら」のコマンドで仕様書(イメージ)を呼び出すわけ。

①②③のお膳立てができて、ようやく、引き寄せの法則がまともに機能しはじめる、
といってもいいかもしれません。

あたしはまだセルフイメージも煩悩も消えてないしぃー、
コヒーレンスにはまだまだ程遠いってカンジだから、
ふと浮かんだことがポコポコ実現なんて当分先の話だわ2024年くらいかしらアハハ、
などと人ごとモードで斜め読みしてる画面の前のキミ、甘いよ。
宇宙ってのは完璧主義じゃないんで、
8割方できあがってればクリアとみなして次に進んじまうんだよ。
ポコポコ実現の時代はもうはじまっている。

で、おわかりになる方にはおわかりになるかと存じますが、
ポコポコ実現てのは、お願いしたことがなんでもかなっちゃうステキなステージ到来!
って話じゃなくて、
あれってまさかのオーダーだったの!? えええーっ!?って件が増えるぜ、
<人類>風味な時空先入観通用しないからそのつもりで、って話です。
移行期にはフェアリーテイストが前景に出てくるけど、
フェアリーはいたずら大好きだってことお忘れなく。
  1. 2018/07/27(金) 17:21:20|
  2. 実現のメタフィジクス
  3. | トラックバック:0
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みけ@猫科ホールディングス

Author:みけ@猫科ホールディングス
イタリアの美少年のような女(豹専務)
と同居してるGID
(ジェンダー・アイデンティティ・ディスオーダー)。
人間(♀)仕様だが
中身は外来種(宇宙人)らしい。
血液型:みけ&豹専務とも超B型。
リンクはご随意に。
連絡も不要です。

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