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ソロ・パブリッシュ

エア充。

スプリットとその先

2018.8.8(水)

以下は、私の主観世界即宇宙に映像や音声、画像、文字で入ってきている
マスメディア情報の話である。
昭和のむかし、心霊や超能力をテーマとするテレビ番組が、一視聴者として見る限り、
とくに検証の視角を差し挟まずに、夏の定番ものとか流行(ユリ・ゲラー氏の来日など)を
背景としたエンタメのひとつとして、比較的のんきに放映されていた時期があった。
前世紀の終わりには、地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教関連事件の影響で、
マスメディアは「オカルト」に対して慎重になり、この種の制作物は下火になって、
とり上げる場合には批判的視点を入れるというお約束みたいなものができあがっている
かに見えた。
ところが、私は一、二回、チャンネルを替えるついでにしか見たことがないが、
「オーラの泉」という番組がはじまったくらいから徐々になし崩しになって、
それでも批判的論調と併立させてバランスをとっていた(?)感があったのが、
いつのまにか批判的論調を置いてきぼりにして、「オカルト」コンテンツは復活していた。
「オカルト」はしぶとかった・・・。

批判派の論拠は現代の自然科学のようであったが、
物質還元主義というのは科学というよりは思想で、
自然科学者たるもの、この思想に立って研究せねばならんと決まっているわけではないし、
さらには、前世紀以降の自然科学は、仮に「すべての事象は物質に還元される」とすれば、
「では物質は何に還元されるのか?」「物質の向こう側はまだ物質なのか?」
という域に入って、19世紀のころのような明快な解が出ず、諸説紛々としているのである。
マスメディアのうえで批判的論調が「オカルト」に抗しきれなかったのは、
マスメディアが視聴率や部数を上げるために要求する単純なわかりやすさを忖度して
しまったせいかもしれないが、
自然科学を魅惑的にしているその未完成性を封じて、
教科書的な自然科学観の提示に終始しためであるように思う。
結果的に、「学校でそう習ったし、みんなそう言っている」的な漠とした多数派意識に立って、
心情的に「オカルト」を嫌っている(これは好き嫌いの問題であって、まちがっていない)、
とくに科学的でもなければリアリストでもない視聴者層、読者層に迎合する形になって、
失速してしまった。

先日、UFOのエンジン音(?)を「ゆんゆんゆん・・・」という擬音で模してUFOを呼ぶという
武良信行(むらのぶゆき)@武良ラムゥ(宇宙名)氏をテレビで拝見していて、
私のマインドで、そんな記憶がリニア時間形式で、走馬灯のようにフラッシュバックしてきた。
また、数日前のネットのニュースで、北海道のどこかの町では真昼間からUFOが飛来、
町の多くの人たちが目撃し、馴れっこになっているとの話を動画つきで見た。
前世紀末からゼロ年代にかけてであれば、
武良さんのような方がマスメディアに出演すれば嘲笑、いじりの標的になっていたと思うし、
そのような町での現象がニュースとしてとり上げられることもなかったのではないか、
と思うと、なにやら感慨深かった。

高次情報によれば、「2016年秋~2017年は、客観世界(仮想集合システム)のシステムを
暗黙に絶対条件として受け入れている意識(人)と、そのシステム性、仮構性に気づいて
離脱可能としている意識(人)との決定的分離、スプリットの時期であった」そうだが、
私には、そうそう、そうだよね、とうなずけるような実感はない。
しかし、それはここが分岐点だったと特定できないだけで、
気がついたらいつのまにかそうなっていたという形で、スプリットは起きていると感じる。

「オカルト」を嫌いな人がいなくなったとは思えないし、批判もなくなったわけではない。
もっと堅実で丁寧な批判コンテンツも、探せばあるかもしれない。
しかし私のマインドの印象では、「オカルト」に寄る人と、そこから距離を置く人とは、
もうお互いに相手にしていない感じがある。
split(裂け目、ひび)は広がり、距離ができ、交わらず、棲み分けの状態となったような。
両者は出合っても、互いに「あ、そうですか」と目礼してすれちがっていく。
両方とも、それぞれの関心ごとに専心していて、相手を説得したり巻き込んだりしなければ
ならないような集合体、<ザ・社会>を、もはや想定していない。

一方、「オカルト」を是認する側の受け入れかたは、昭和のむかしとはちがう。
昭和のむかしには、「オカルト」はどこか「遠野物語」的で、異界の非日常色が濃厚であった。
超能力者とか霊能力者というのは、何か特殊な能力をもつ別世界人という扱いだった。
でも昨今の「オカルト」は、これはネットの普及でネット的になったといってもいいと思うが、
何かの拍子に誰でも当事者になりうる現象として語られるケースが多い。
自分は霊が見えるとか、幽体離脱するとか、スプーンを曲げられるとかいった人が巷にいる。
意図して発揮できるのではないが、UFOを見たとか、亡くなった人に会ったとか、
何らかの不思議現象に遭遇した経験がある人を含めれば、
さして珍しくもないかもしれない。
また「オカルト」を是認するといっても、「そういうことがあってもいい」「面白い」とエンタメ寄りで
接している人から、自らヒーリングだのチャネリングだの異界人コンタクトだのにハマり、
自宅にクリスタルとかオラクルカードとか楽器のチューニング目的ではないチューナーなどが
当たり前のように置いてあったりする人まで含まれ、温度差がある。

ところで、スプリットは「オカルト」を是認するか否かによってではなく、
仮想集合システムである客観世界を暗黙に絶対条件として受け入れているか、
言い換えるとこれを疑わないか、
それとも客観世界の仮想システム性に気づいて離脱できるとしているか、によって
起きたのであった。
だから、「オカルト」にとくに関心がなくても、客観世界を前提とする諸法則から逸れる現象を、
思考や感情で排除せずに現象として認める意識(人)であれば、
否応なく離脱サイドに振り切ってしまう。
ただ私見であるが、「オカルト」免疫ゼロで離脱サイドに向かうケースは稀有だと思う。
かなり思考が柔軟な人でも、人が誕生して成長して成熟して老化して死ぬ、とか、
自分が知覚できない場所というのも存在していて何らかの出来事が起きている、
といったような、日常感覚にぴったり張り付いている、というか、
見えないところで当たり前の日常感覚の柱や梁になっている時空間シバリには、
非常に気づきにくいからである。
反対に、「オカルト」に通じていても、客観世界の仮構性に気づいていなければ、
それに気づくまで客観世界の枠内にいて、
客観世界の時空間法則で動く日常に、ときおり「オカルト」の非日常が射し込むという
二重性にとどまるだろう。

長々と「オカルト」の動向について述べたのは、
「オカルト」現象では客観世界の法則を逸脱する「メタ」フィジクスが顔をのぞかせるからである。
だが「オカルト」の知識や、記憶化した不思議体験の多少は、
スプリットの起因とは関係ない。

客観世界の仮構性が見えたその先に、統一見解というものはない。
なぜなら、そこはもう「誰にとっても同じ」客観世界ではないからである。
統一見解とか正統とか主流とかいう尺は、
「誰でもわかる」「誰にでも伝えられる」ことを前提とした客観世界の思考である。

現に、上述の温度差分布で高温度帯にいる人たちは、私もそうだけども、
それぞれ勝手なことを言ったりやったりしている。
一部の高次entityは、<人類>という仮想カテゴリを借用して<地球惑星人>に変容する、
つまり客観世界を脱して地に戻ったら自然に惑星人としてのまとまりができる、
という構図を描いていたが、
あにはからんや<人類>の地はそこまで均質ではなく、むしろ坩堝だったのであるよ。
渡り鳥だったら、ある時機を感知すれば一斉に飛んで渡るけれども、
<人類>は渡り鳥みたいにはできていないのだ。
といっても、ずんずん高次に昇っていけばどうせワンネスに帰してしまうんだけど、
かなり高くならないと、そのちがいは大枠に統合されず、
いわば古今東西南北あらゆる種類の音楽が混在していて、
「音楽」という概念をもってきてはじめてひとつにくくれるような状況なのである。
これはべつに嘆かわしい状況ではない。
変に予定調和に走ると本音を隠したいびつなまとまりになってしまうんで、
自分の宇宙色をごまかさずに、ありのままに観察/創造することがキモなのだ。
本当のワンネスを響かせるのは、個々のわがままである。

と、ここまで書いておいて、
「でも、さ、契約書とか支払いとか健康保険とか家族とか、いろいろ、
社会のインフラは依然として客観世界デフォルトで機能してるじゃん?
なら、ここから抜けたとしても、各人が自分宇宙の道理に沿って好き勝手やってたら、
これに替わるしくみが立ち上がらないんじゃないの?
だとすると、意識は仮想集合システム(客観世界)から離れたとしても、
物理像(物理世界)では依然としてインフラ部分で客観時空に制約されて、
かえって生活しづらくなるんじゃないの?」
と訊いてみたら、
「“私”に先んじるどんなしくみも存在しない」
「社会、社会のしくみ、制度、慣行などは、マインド(主に思考)で解釈し編集した
物理像の存続、運営を目的とするマインドの産物で、物理像ではない。
物理像は“私”が体性感覚を総合して観察/創造している像で、
唯(ただ)そのようにあるだけであり、いかなるしくみもなく、制約もない」
「マインドに組み込まれた仮想集合システム(客観世界)を通して解釈、編集した
物理像の像を管理して、像じゃない物理像をコントールした気になっているのは
マインドに組み込まれた仮想集合システムなんだから、
このシステムをはずせば管理は終わる」
「仮想集合システム(客観世界)なしの本来の個体即宇宙に回帰してから
それに替わるしくみを立ち上げるとか、立ち上がるはずだとかって、
泳げるようになったのに浮き輪を探してるのと似てないか?」
・・・等々、高次屋さんたちの全方位一斉送信にペッタペタにやられてしまいました。
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  1. 2018/08/08(水) 16:03:07|
  2. アセンションについて
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なぜ、変化の瞬間はわからないのか

2018.8.2(木)

いわゆるアセンションの動向についての、ソフィア@シリウス、モナ@アルクトゥルス
とのチャネリング鼎談です。

みけ スピリチュアルな説のひとつに、客観世界と画一な時空間シバリは、当面、
といっても千年単位くらいの時間で、まだ存続するという考えかたがあります。
先ず誰にとっても同じ客観世界があって、そこは誰彼の視点に関係なく同じ空間構成で
できていて、生滅の方向をもつ変化が過去、現在、未来とつづいていくと。
そこに各人が誕生という形で投げ込まれ、80~100年くらいの時を過ごして老化して死に、
また生まれ変わって投げ込まれると。
幾たびものその客観世界経験を通して、人間の「魂」は成長していく、とされています。
意識が広がって、この客観世界の外に気づいたとしても、客観世界は変わらない。
客観世界の外からもたらされる情報やヒーリングのツールとかは、
個人や集団の生活の向上、改善に役立つけれども、客観世界とそのルールの制限の
範囲内で役立つのであって、それを超えることはないんです。
こういう制限つきの世界を、目的論的に「学びの場」と呼ぶ人もいます。
ソフィア@シリウス それも1つのモデルだね。
フィジクスを含むメタフィジカルな宇宙のモデルに誤りはないんだから、それもあり。
でも、あなたの宇宙モデルはそれじゃないんじゃないの?
モナ@アルクトゥルス 学びとか魂の成長とかってプレイなのよ。
そういうプレイをやりたい人は、それに適した遊び場を宇宙モデルとして創造する。
「テーマ」パークみたいに。
みけ 私の宇宙モデルでは、意識が広がるってことは、“私”が単純な観察/創造意識に戻る
ってことだから、“私”の観察/創造なしにあらかじめ存在している物質とか精神とかっていう
客体はなくなります。“私”に先行する世界はないってことね。
宇宙は完全に“私”の主観世界だから、誰にとっても同じ客観世界もなくなる。
変化をプロセスとしてとらえるとか、
作業仮説として、たとえば身体の内部やドアの向こう側を設定して作業するとか、
時間や空間をツールとして使うことはあっても、それは自分の宇宙に適用するんであって、
強制適用ではない。強制適用じゃないから、ルールじゃなくてツールなんです。
モナ そのモデルではどんなプレイができるの?
みけ いったん物理像とマインド帯域だけに“私”を制限しておいて、
制限をはずしたときに、既知のことが新たなこととして現れるさまに驚くっていうゲーム。
思い出し、再会のゲーム。
タイムカプセルに入れた物を何十年もたって開けるってのに似てるかも。
再会のつど、驚きや喜びはあるけど、そこに「学び」「成長」っていうベクトルはありません。
ソフィア 他者との関係はどうなっていますか?
みけ 他者っていうのは自分の宇宙に住んでいる、他宇宙の自分バージョンの相です。
物理像にいない他者は、マインドで思い描いたイメージだから、周波数帯域がちがうし、
物理像とマインドを行き来する他者は、そのつど別人で、一期一会。
で、<人類>とか<日本人>とかは、個人のマインドにある集合体の概念です。
『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)を読んでいて、それがすごく腑に落ちました。
次男のイワンはすごく<人類>のことを気にかけてるけど、
それはあきらかに彼の脳内人類です。彼の云う人類って自分のことなの。自覚してないけど。

ソフィア では、汝即宇宙であるあなたは、音声や文字などの情報として現れている別の
宇宙モデルを、なぜ放流してしまわず気に留めているの?
みけ そうですね・・・私の宇宙モデルには「学び」も「成長」もないし、
客観世界がはじめから成立してなくて、思い込みだったってこともはっきりしてるんですが、
何らかの制限、制約がまだ千年単位でつづくってとこに、
それがないとはいえないという、一抹の説得力を感じるから、かなぁ。
物理学でも、量子現象とか時空の歪みとかが出てくるのはミクロかマクロの世界で、
日常の生活世界では古典力学が通用するってことがあるんで、
そう簡単に一律にはならないんじゃなかな、っていう。
強引に統合しようとすると机上の空論になるような気もして。
ソフィア 日常の生活世界って何?
みけ う・・・。
ソフィア あなたの云う日常とか生活というのは、こちらから見ると、数日程度の記憶の束に
見える。それはマインドで、思考で組み立てているもので、物理現象(物理像)ではない。
物理現象には「日」も「常」もないんだよ。
みけ おっしゃる通りですorz 日常生活というのは物理現実じゃなくて、マインドの、思考で
組み立てているもので、それに「あーこんなもんか」「まーこんなもんだろう」っていうような
マンネリ気分反応がくっついた心理的な実感です。
だけど、数日程度の記憶の束をマインド現実じゃなくて物理現実だとみなしたほうが
実用的っていうか便利っていうか・・・。
モナ ソフィア、あなた、カオが怖い。般若みたいよ。
ソフィア ・・・これがナチュラルな表情なのだが。
モナ あれじゃないの、ほれ、セルフ方式のアセンションって、キタ! とか、キクー!って
のがなくて、自然治癒みたいなもんだから、実感しにくいんじゃないの?
みけ そうですね。16年の秋以降、スプリット(客観世界の枠に気づかない人と、気づいて
離れる人との決定的分離)が起きるとか、17年の夏、冬にも何らかのシフトがあるとか、
音声や文字の情報では云われてましたが、私にはとくに何も起きていないような。
ただ浮世離れが進んでることはたしかです。
私にとっての物理像‐マインドは、以前から客観世界の世俗とはズレてましたが、
もう全然関係なくなっちゃって、
たとえば通販サイトのお奨め商品みたいなのは全然ヒットしなくなっちゃった。
ソフィア じゃ、スプリット起きてるじゃん。
みけ あ、そうか。あーーーー、そういうこと!
ソフィア そうしたお奨め商品、あるいは1日にこれだけの野菜を摂るのが望ましいとか、
何歳になったらこういう病気のリスクに備えよう、
これこれの仕事をしたいならこの資格を取ろう、こうして売り込みなさいとか、
何でもいいが、マインド現実を物理現実とみなすことを前提としたその種の情報が、
あなたにとって、実用的で便利ですか?
みけ あー、だめです、全然。
ソフィア いくつもの任意のデータを時間形式で「数日程度の記憶」としてリアルに実感する
というマインドウェアを使っているとしようか。
このウェアのOSは客観世界のOSと同じだから、“私”に先んじてまず世界があって、
その世界は切れ目なく連続的に、生滅のベクトルをもって変化していることになっている。
そうすると、変化の瞬間の場面というのは決してやってこないんだよ。なぜだかわかる?
みけ アウトプットされる情報が何日から何日までっていう、切れ目なく連続した記憶の束で、
常に束としてしか把握できないから?
はっ、と意識した場面は直近の過去で、その直近過去場面に数日前からそこまでの
記憶の束が尾ひれみたくくっついているっていう。
ソフィア そう。客観世界というのは私たちのいう仮想集合システムのことなんだけど、
このシステム下でリニア(線形)時間形式に沿ってデータを開いてると、
どんなデータも束になった過去として情報化され、認識される。
つまり、このウェアを使っていると、マインドは結果(過去情報)しかわからない。
たとえば、病気から回復した瞬間というのはわからないわけ。
みけ あー。検査機器を使ってずっとモニタリングしていれば、病巣が消えていく映像って
撮れるかもしれないけど、どこまで細分化しても必ず幅があるから、
厳密には消えた瞬間は特定できませんね。
なんか、「飛んでいる矢は、飛んでいる各瞬間には静止しているから飛んでいない」
っていうゼノンのパラドックスみたいだけど。
それに、病巣がそのままでも、なぜかみるみる元気になって、問題ではなくなるという
治りかたもあるし。
ソフィア ある場から別の場へ移るというのは、“私”の観察/創造視点が移ることです。
この移行は連続しておらず量子跳躍的で(1→2→3→4・・・7と徐々に移るのではなく、
1から突如として7に移ること)、客観世界のシステム下にいて理解できることではない。
「瞬間」という言葉が帯びている高速度のイメージも関係ありません。
時空の制約がはずれるのだから、「ゆっくり」とか「止まっている」と云っても同じ。
モナ だからさ、自分がものごとを客観世界のフレームでとらえてるのを自覚してることが
とっても大事なわけ。気がついてれば、それがただのフレームだと相対化されて、
気づけば即そこから抜けられるから。
決まったフレームからはずれてれば「瞬間」がわかるし、逆にいうと、
「瞬間」がわかるときがフレームからはずれてるとき。
みけ あ、その「自分即宇宙」とか「観察即行動」というときの“即”って言葉は瞬間ぽい、
量子跳躍的です。
ソフィア アセンションでは、物理現象とか制度とか考えかたとか気持ちとかが変わるのでは
なく、それらを成り立たせている土台が変わる。
土台とは、物理像もマインドもそれを超える帯域もすべて包摂する意識、宇宙です。
その変化は、客観世界が存続するという見解も含められるほど、一斉的、集合的ではない。
だから徹底的に個人的なことなんだよ。
そして、どんな応用技術、実用性も、土台となる宇宙にもとづいているから、
どういう情報、思考ツール、物資が実用的かということも、人によって異なるようになります。
たとえば画期的な防寒ウェアが開発されたとしても、
真冬でも薄着で快適に過ごせる人にとっては関係ないでしょう?

<近年のアセンション年表(笑)>
2012~13年 一斉アセンション方式の中止。セルフ方式へ転換。
2014年 象徴的表現:土星評議会の制限撤廃。
高次帯域の波動は、客観世界(=仮想集合システム)の法則に適合させて
実現させなければならないとする制限がなくなる。
→奇蹟や超能力が特別なことではなくなる土壌ができる。ヒーリング、リーディング能力
などが発現しやすくなる。
2015年 客観世界(=仮想集合システム)が強制適用ではなくなり、離脱が自由になる。
→瞑想状態、変性意識に入りやすくなる。気づきが増える。「悟る」のが易しくなる。
2016年 客観世界(=仮想集合システム)のシステムを暗黙に絶対条件として受け入れて
いる意識(人)と、そのシステム性、仮構性に気づいて離脱可能としている意識(人)との
決定的分離、分裂。
2017年 象徴的表現:アセンション支援合議体による集合的啓発活動の終了。 
→客観世界(=仮想集合システム)の仮構性に気づいた意識(人)がさらに分化、
多様化する。客観世界の下に潜在していた坩堝性の表面化、指標(お手本)の喪失。
2018~20年 多様な宇宙モデルの揺籃。
  1. 2018/08/02(木) 17:01:07|
  2. アセンションについて
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ポコポコ実現

2018.7.27(金)

2018年の6月半ばからしばらく、「実現」というテーマについての記事がつづいたので、
「実現のメタフィジクス」として、1つのカテゴリーにまとめた。
通りすがりにご覧になった方に、何らかの参考になればさいわいです。

言葉は、見えもさわれもしないが比較的自覚しやすい思考、感情、気分(マインド)に
対応する道具なので、言葉にするとどうしても七面倒くさい表現になりがちですが、要は、
ふっ、と浮かんだことが、ポコポコと実現しやすくなるということです。
その前提は以下の3つ。
①Zero Point Fieldとつながっている
ZPFとつながることは②③を促します。
②“私”が澄んでいる
“私”意識(エゴ、自我)のスジてっぺんから地面まで通っていてブレておらず、
どんな思いとも、entityとも同一化しておらず、夾雑物が混じっていない。
③コヒーレンス
見えない宇宙の各層と見える宇宙とが相似形で重なっている、コヒーレントである。

実現というのは、コンセプトがデザインや仕様になるとか、それがさらに製品になるとか、
上位の段階が、より具体的になることなので、
物理像で、物や出来事として現れるケースばかりではありません。
マインドで、考えや気持ちやイメージとして「わかる」という形で具体化するケースもあるし、
夢のなかで具体化したことがヒーリングになっているケースは多々あるし、
高次帯域で、もっと漠としたエネルギー的な感じで具体化することもある。
Zero Point Fieldのフォースは、それぞれの帯域の“私”の観察/創造によって、
それぞれの帯域に適した形で具体化する。
で、コヒーレントなときは、高次の“私”の挙動なんか全然自覚してなくても、
勝手に最適な具体化が起きる。

で、ふっ、と浮かぶことが「~が欲しい」「こうなったらいいのに」「こうなりますように」
といった、願望形とか仮定法願望形みたいな形をとることもある。
“私”を軸とする個体宇宙がコヒーレントなとき、やってくるそうした願望形は、
もう充ち足りていなかったり感謝が足りなかったりする兆候ではないんで、
放っておいていいのです。放っておけば、適した時機に実現します。
引き寄せ工作が必要なら高次屋さんたちが勝手に仕掛けてくるし、
何か行動が必要なら、一念発起しなくても身体が勝手に動く。

“私”が「中年の男性」「主婦」「こういう性格」「これこれの実務経験がある」といったような
限定的なセルフイメージと同一化しているときに抱く欲求や、
何かの思いに同一化して自己犠牲的な献身モードになっているときの利他的欲求は、
究極には自身による自己承認に必要な要素を充たそうとして、
悩みや欠乏にもとづいて発動されるので、
欲求にストレス感や焦燥感が混じっています。
どうしてもこうあってほしいとキリキリ念を込める感じ(「昨晩捨てたあの部分だけはテストに
出ませんよーに!」と祈るときのあの感じ)とか、
ハズレたときの凹みを和らげるために、あらかじめ「やるだけはやってみる」的な諦めを
まぶしておくとか、
実感的にいってズッシリ重かったり、翳りがあったり、どこか輝きがないんですわ。
フィクションでもノンフィクションでも、ドラマのネタになるのはこういう欲求ですが、
①②③の前提ができていると、こういう欲求が渦巻く世界とは縁がなくなります。
興味がなくなるので、袖も擦り合わなくなる。

①②③の前提ができてるときに出てくる欲求は、
煩わしくも悩ましくもないんで、煩悩ではありません。
それが唐突でも、かつてどこかで願ったことの差し戻しでも、ベタベタに生活密着系でも、
無邪気で、軽やかで、「えーこれかよ」って、ちょっと笑える感じもある。
『夏の夜の夢』の妖精パックとか、ムーミントロールとか、
人外系フェアリー族のメンタリティに近い感じがする。

実現の原則は、「既に(上の次元で)成っていることが成る」です。
物理像が最終形となる場合、
高次帯域にデザインがあれば、マインド帯域にはそれに呼応する仕様書があり、
両者が相似形でそろって、相似の物理像へ跳ぶ(量子跳躍する)はずなのに、
マインドがねじれこじれしていたんで、
受け皿となる仕様書がどっかに雲隠れして出てこず、
保留になってる案件が多々ある。
「欲しい」とか「こうなったらいいのに」という願望形は、
デザインに対応するその仕様書を呼び出すコマンドです。
仕様書とは、物理像で実現したときのイメージのことです。

波動が具体化する案件の数は、
 高次帯域 > マインド > 物理像
の順で多く、
1つのコンセプトに対して多数のデザインが、1つのデザインに対して複数の仕様書が描け、
最終的に製品に落とし込まれるのは1つであるのと同じように、
上位次元になるほど実現ポテンシャル(可能性)が余っていて、
「もしも」の余地がたくさん含まれています。
そのなかで、物理像が実現のゴールになる案件(下記のA)については、
 高次帯域A-マインドA-物理像A
という相似関係でそろえる必要があり、
マインドの仕様書(物理像での実現イメージ)をすっ飛ばすわけにはいかない。
なので、「欲しい」「こうなったら」のコマンドで仕様書(イメージ)を呼び出すわけ。

①②③のお膳立てができて、ようやく、引き寄せの法則がまともに機能しはじめる、
といってもいいかもしれません。

あたしはまだセルフイメージも煩悩も消えてないしぃー、
コヒーレンスにはまだまだ程遠いってカンジだから、
ふと浮かんだことがポコポコ実現なんて当分先の話だわ2024年くらいかしらアハハ、
などと人ごとモードで斜め読みしてる画面の前のキミ、甘いよ。
宇宙ってのは完璧主義じゃないんで、
8割方できあがってればクリアとみなして次に進んじまうんだよ。
ポコポコ実現の時代はもうはじまっている。

で、おわかりになる方にはおわかりになるかと存じますが、
ポコポコ実現てのは、お願いしたことがなんでもかなっちゃうステキなステージ到来!
って話じゃなくて、
あれってまさかのオーダーだったの!? えええーっ!?って件が増えるぜ、
<人類>風味な時空先入観通用しないからそのつもりで、って話です。
移行期にはフェアリーテイストが前景に出てくるけど、
フェアリーはいたずら大好きだってことお忘れなく。
  1. 2018/07/27(金) 17:21:20|
  2. 実現のメタフィジクス
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コヒーレンス

2018.7.22(日)

Zero Point Fieldとつながる(2016年秋~2017年)、エゴの復元(2018年1~4月)、
コヒーレンスへの回帰(2018年4~8月)と、
私版のメタフィジクス(物理を超え、物理を包摂する宇宙のしくみ)はそんなふうに
開いていった。
カッコ内の年月は、徐々ににではなく突如とした量子跳躍的変化が私に起きた時期の
暦目安であって、世の大勢とかオカルト界の趨勢とは何の関係もない。

エゴという言葉は誤解を招きやすいので、毎度のことながら言い訳しておくと、
これは経験記憶から精製されたセルフイメージのことではなくて、
そのセルフイメージも含めて、全部の体性感覚(物理像)、心理、超心理を観察すると
同時に出現させている、それら全部からなる宇宙の芯になる観察/創造意識のこと。
エゴの復元とは、観察/創造に徹することで、セルフイメージを対象化して“私”から剥がし、
もとの芯だけに戻すことをいう。
“私”(エゴ)がセルフイメージとくっついて「“私”=セルフイメージ」になっていると、
どんな出来事も、ある種の万能調味料みたいなセルフイメージ色に染まり、
マインドが高次帯域と相似形になったナチュラルな状態からわざわざ逸れてしまう。
セルフイメージに限らず、“私”が何らかの思考とか感情とかentityなどと同調しやすく、
自他の区別がきちんとできないと、
「他(対象)」として現れる光景が歪んでしまい、
というのは芯の“私”ではない思考や感情やentity色に染まってしまうからで、
やっぱりナチュラルな相似状態からわざわざ逸れていってしまう。

コヒーレンス(coherence)は「議論などの筋が通っていること、首尾一貫、整合性」、
物理学では「2つの波が干渉しうること、干渉性」を意味するが、
メタフィジカルには、ハイアーセルフ‐高次帯域‐マインド‐物理像の各周波数帯が、
相似形でそろっていることをいう。
わかりやすくいうと、
①閃き‐②直感‐③イメージ‐④行為、実現状態と、
上位のコンセプト的なものと下位の具体化した状態が一致していてズレていないことである。
これの典型例が、④の時点で「これは知っている」と気づくこと、
予知夢やデジャヴュに気がついたそのときであるが、
上位の既知感が70~90%くらいの場合もあって、
その場合は既知率100%の場に(引き寄せられて)飛ぶので、
70~90%の場と、100%の場とのちがいが時間の差異や完成度の差異として現れる。
平たくいえば、実現にいくらか時間がかかったり、
少しだけちがう形で実現したりする。
実現というのは物理像で実現する場合だけでなく、
マインド帯域でイメージやアイデアを思い描く場合でも同じである。
高次帯域での既知率(「知っている」感じ)が低いと、いいアイデアはなかなか思いつけない。

私の場合、コヒーレントな個体宇宙のイメージって、数字を合わせると開錠される鍵とか、
ルービックキューブ(立方体の面の色を合わせる立体パズル玩具)みたいな感じです。

ZPFとつながっていて、“私”が宇宙を貫通していて、その宇宙がコヒーレント。
これは修行や輪廻を積み重ねてようやく至れる境地じゃなくて、
人間でも、動植物グループでも、無機物(元素)でも、
ありとあらゆる「ある」ものの原初の状態です。
なので、余計なことをしなければ、もとの状態に還る。
ほんというと、何をしていても、放っておいても、時機がくればもとに戻る。
人によっては、量子跳躍的なその時機がくるまで、
現実感覚をともなう夢のなかで長い長い時を過ごすようですが、
その時機がきてもとに戻ってみると「なぁんだ。こんなのわかってたよ」てな感じです。
長い長い歳月も、夢だと気づいたとたん、それが圧縮された動画ファイルみたいなものだった
とわかり、拍子抜けするでしょう。
修行などは、何かを得たり積み重ねたりするためにすることではなく、
反対に引き算して削いでいく方法のひとつです。
何らかの修練への関心が戻り時機のサインになっている人もおられるかと思います。

コヒーレンスを阻害する余計なことは、人が「心」とか「頭のなか」とか「肚(はら)」と呼んでいる
マインド帯域(思考、感情、気分、それらの組み合わせ)で起きます。
「余計なことをしない」とは、具体的には以下のようなことです。
(1)物理像への情動反応を初発で止める
・物理光景に対してマインドで反射的判断が起きて、イラっとしたり期待したりテンションが
落ちたりしても、経験記憶を検索サーチして原因を追究したり、
思考の堡塁を築いて防御態勢をとったりしない。深追いしない。
・反射的判断による情動反応はしょっちゅう起きますが、これを抑えることもしない。
抑えるとこじれます。
・とにかくマインドで何かが起きたら、最初の一歩を観察して終わりにする。
つい「これは私のせいだ」「いつもの癖で~」といった二歩目が出てしまったら、そこで止める。
(2)唐突に湧いてくる思いを放っておく
物理像への判断からではなく、唐突に何かの思いが湧いてきたり、突然気分が変わったり
したら、「なんでそう思ったんだろう?」「昨日聞いた話からの連想かな?」などと
掘り下げたりせず、放っておく。
(3)不思議な出来事があっても、同時に(2)のようなことも起きて瞬時に理由や意味が
判明するのでない限り、自発的にサーチしたりしない。意味づけの努力をしない。


コヒーレンスは、数字を合わせる鍵やルービックキューブ、あるいはゾロ目のような
ひとつの状態なので、てっぺんから物理像までそろっていても、
何かの拍子にマインドのパフォーマンスが大きくなると、コヒーレントでない状態、
アンコヒーレンスになります。
が、何度もコヒーレントな状態へ跳んでいると、
マインドの動きは(2)のパタンが多くなってくる。
唐突に何かの思いが湧いたり、瞬時にわかるというパタンで、非常に高速です。
離島の珍しい動物が一瞬、目の前を横切っていった、みたいな状況に似て、
一瞬閃いて、それがスルスルと自動的に解けてくるというような。
これはマインドが高次帯域と相似形になって連動しているからで、
この周波数帯域の本来のありように戻ったのです。

コヒーレントになってるときは、とくに何かを引き寄せようとしていなくても、
ふっと思い浮かんだことが、物理的な出来事(物理像)なりアイデア(マインド)なり、
その思いの具体化にふさわしい帯域で、形になりやすい。
その思いがポジティブか、ネガティブか、といった傾きは、もはや問題ではありません。
コヒーレンスはその種の二元性を超えているから。
とはいえ、
「ものごとを放置しておくとネガに落ちていく→がんぱって±0以上にアゲておく」
という自転車操業モードが通常だった地球人標準からするとポジティブです。

そうそう、コヒーレンスといえば、
2017年9月10日(日)の記事で紹介したRTLFは、
じぶん宇宙(個体宇宙)のコヒーレント化を加速させる不思議グッズです。
↓これ
RTLF(右)
RTLF(左)
ご興味のある方は上記の記事中リンク、またはブログ右のカテゴリ「不思議なお店」から
分かれている「RTLF」からご覧になってみてください。
  1. 2018/07/22(日) 21:20:51|
  2. 実現のメタフィジクス
  3. | トラックバック:0

欲しくてもOK

2018.7.16(月)

図書館の新着本コーナーに、読みたかった本みっけ。
前々から、「連作中、なぜこの巻だけ図書館に置いてないの?」と思っていた本が
新着本として届いていたという、
ターゲットを絞った感のあるギフトっぽさに驚喜した。

これを、
「このシリーズは人気があるから、どこかに読みたい人がいて、その人がリクエストしたのだ」
と推測する一般常識には、このシリーズは「誰か」によって借りられていることが多いとか、
「どこかにいる読みたい人」とか、そのどこかにいるだろう人の行為とか、
現れている物理像を思考で延長していって、そこにも物理光景があるはずだとする
空間思考がぱんぱんに詰まっている。
私の物理像にはいない「読みたい人」や「その人のリクエスト」が想定されている。
想定の根拠は経験記憶で、経験記憶の真偽は証明できない。
なのに、そう考えるのが一般的とされているんだから、一般って不思議よな。
一般常識って、そんなふうに、足もとがユメマボロシでできている。
足もとのマボロシ性にフタをし、ここにない空間も実在することにして成立している一般常識は、
みんなの信用によって価値があることになっている貨幣に似ていて、
その「みんな」もマインドで思考された概念であり、物理像にはいない。
私の宇宙には、「みんな」を数えてたしかめた人なんていない。

読みたかった本が新着本として並んだ日の数日前、私はこの本の内容が気になって、
あるブログに紹介された目次やあらすじを読んでいた。
どうもそのときに「図書館にこの本がある」という場面を引き寄せる磁場ができたみたい。
私は単純に「読みたい」と思っただけで、引き寄せ工作をした覚えはないけど、
ハイアーセルフ‐高次帯域のほうで工作して確率をアゲてくれていたようである。

この一件を通じて、「あれが欲しい」とか「こうなったらいいのに」という思いには、
とくに実害はないということがわかった。
スピリチュアル業界の公式見解では、
「あれが欲しい」という思いは「あれが欠けている」物理像を、
「こうなったらいいのに」という思いは「こうなっていない」物理像を実現してしまっている、
ということになっている。
私もそういう話を本で読んだときはそれで納得していたんだけど、そうではなかった。
少なくとも私のメタフィジクスではそうではない。

「Xが欲しい」という思いが同時に「Xが欠けている物理像」を生じさせているという説は、
「Xが欲しい」という思いを「Xが欠けている物理像」へと、思考上で置換しただけで、
「Xが欠けている物理像」などというものはどこにも存在しない。
物理像というのは、“私”が感覚を統合的にとらえて結んでいる像で、
見えたりさわれたりはするが、それ自体はどんな解釈も含んでいない。
足りているとか欠けているとか、ポジ/ネガの角度がつくのはマインドで、
物理像というのはポジもネガもない、中立な、唯の像なのです。
ある自然現象が自然災害になるのは、人の安全や生活が脅かされるからで、
その自然現象そのものはただの自然現象である、というのと同じ。
1階に何らかの物理像があって、
2階のマインドで、「これは“Xが欲しいという思いが出現させているXの欠けた状態だ”」
と解釈しているだけである。
「Xが欲しい」という思いは、経験記憶や人からの情報にもとづく思考だったり、
眼前の物理像の解釈から生じた思考かもしれないが、
ともかく「Xが欲しい」という思いは、物理像に何の影響も及ぼしていない。

実害があるとすれば、「Xが欲しい」という思いが、「Xがないから不遇だ」とか「Xを持っている
誰それがうらやましい」とか、ほかの思いと連動して、高次帯域とのシンクロ率が下がる場合、
つまり「欲しい」という思いがストレスになる場合で、
「欲しい」という思い自体は無害である。

「あれが欲しい」「こうなったら」という思いには、
マインドで何らかのイメージを立ち上げる指向性がある。
たとえば新しい家電製品のイメージとか、漠然としたしあわせなイメージとか、
そういったイメージを起動させる。
「欲しい」「なったら」と思った時点でイメージが立ち上がる以上、
マインド帯域ではタイムラグなしに即時に成就していることになる(※1)。

さて、「思考が現実になる(物理像になる)」とは、
「マインドと物理像が相似関係で重なって、マインドがこれを既知として認識する」、
そういうコヒーレンスが起きるということであって(※2)、
思考が周波数や波形を変えて物理像に変化するわけではない。
ハイアーセルフ‐高次帯域‐マインドという見えない帯域が、
潜在している相似形の物理像をアクティベートして顕在化する、
そのアクティベートの動因が「既知」もしくはそれに近い「8割方わかってる」的な磁力である。
早い話、見えない帯域がウマの合う物理像を連れてくるのだ。

では、マインドでイメージした時点で成就しても、
そのイメージが、イメージ通りもしくはそれに近い物理像を連れてこない場合、
なぜそうなるのか。これは2つのケースに大別される。
①エネルギー強度が「Xのイメージ<連鎖マインド」になる場合
「Xが欲しい」という思いが、「Xがなくて不遇」「Xを持つ人がうらやましい」とか、
「これは(一般的な意味での)エゴから出た欲求だからどうのこうの」とか、
さらには時間思考、空間思考など、他のさまざまな思考、感情、気分を連鎖起動させ、
これらが、Xのイメージが相似物理像をアクティベートする力を相殺すると、
Xのイメージ単独では基底次元(物理像)にコヒーレンスを起こせなくなる。
ごちゃごちゃとした複雑な連鎖式(関係)ができるために、
マインド全体の動態も高次帯域とシンクロしなくなる。
②マインドがゴールで、物理像になる必要がないイメージの場合
夢のなかの出来事の大半、ヒーリングやセラピーの最中に出てくるイメージの大半、
文章やアートなどの作品の材料になるイメージ、など。

「あれが欲しい」「こうなったら」という類の思いは、
パッと端的に思いついた状態のままで、
深く考え込んだり練ったりしなければ、物理像化する確率はかなり高いということだ。
深刻でない願いごとがかないやすかったり、ビギナーズラックとかが起きるのも、
初発のシンプルさが保たれるからだろう。

お釈迦様が垂らしてくだすった蜘蛛の糸を切らしちゃったカンダタもなー、
あとから来る人のことなど一切眼中になく、単純にキタ!って喜ぶか、
もし下を見ちゃっても、このくらいの人数全然余裕、イケる、と思えれば、
地獄からアセンションできたのになー。
あの話は、<人類>的には自分だけ助かろうとする利己心から起きたことと
解釈されるけど、そうじゃなくて、
きわめてまっとうな常識で損得計算している間に、
思考のパフォーマンスが大きくなって切れちゃいました、という話なんですよ。
少なくとも私周りのentityチームはそう読むよ。


※1
基底次元が上昇して、“私”が物理場から離陸すると、
「思い描いたことが即時に“現実”として体験される」世界がはじまって、
マインドのパフォーマンス(思考や感情などの動き)をほとんど観察しておらず、
“私”がマインドから剥がれていない(特定の思考や感情などがパッケージになった
セルフイメージセットと同一化している)と、
破天荒な夢のような世界に投げ込まれて混乱するのだが、
物理身体像があるうちはまだそんなことにはならない。

※2
これを図式化すると、

最上階:Zero Point Field―すべてはあり、かつ、ない(既知であるとともに未知)
5F:0/1帯域―全ハイアーセルフのデータを「ない/ある」という形に圧縮して知っている
4F:ハイアーセルフ―個体宇宙(1~4階)の全データが既知
3F:高次帯域―物理光景をマインドが知っていることを知っている
2F:マインド帯域―1階の物理光景をすでに知っている
1F:物理像―特定の物理光景
B1F:物質波―1階の物理光景に物質っぽい質感を与えている
B2F=最上階:Zero Point Field―物質波がZPFに還流

ということになる。
ささやかな光景でも、バウムクーヘンさながらに、タテ方向にはこれだけの層が重なっている。
個体宇宙(魂)を構成しているのは1~4階で、
1~4階が「すでに知っている」という形で相似的な関係になっているとき、
個体宇宙はコヒーレント(整った状態)である。
典型的なのは予知夢やデジャヴュに気づいているときで、
1~4階とも相似的な関係で重なり、「既知」で目がそろっている。
  1. 2018/07/16(月) 15:56:29|
  2. 実現のメタフィジクス
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プロフィール

みけ@猫科ホールディングス

Author:みけ@猫科ホールディングス
イタリアの美少年のような女(豹専務)
と同居してるGID
(ジェンダー・アイデンティティ・ディスオーダー)。
人間(♀)仕様だが
中身は外来種(宇宙人)らしい。
血液型:みけ&豹専務とも超B型。
リンクはご随意に。
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