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ソロ・パブリッシュ

エア充。

エネルギーワークについて

2018.6.22(金)

何か気がかりな状況にある人、動植物、建物、土地や森林や海などの環境、等々に対し、
ヒーリングやお祈りといったエネルギーワークをするさいには、
先ず自身の「気がかり」をクリアリングしましょう。
エネルギーワークぅ? は、なんですかそれは? という人は、
運動するとか何度も腹式深呼吸するとかして、心身をマッ白にするのでもよいです。
クリアリング、マッ白。
それだけでも効果があり、それだけでエネルギーワークが完了することも多々あります。

他者の境遇や、集団の安全、調和を気にかけることは、
一般常識では(物と意識との関係が逆転している仮想集合システム下では)
思いやり、善意、場合によっては正義とされています。
思いやりや善意や正義が生じる思考や感情、人として、生物としての「当たり前」の根拠を
問いただすことをしなければ、
ここから先はない、として引き下がるのであれば、それは正当でしょう。

しかし、物やその動きとして現れていないメタフィジカルなコスモスでは、
人として生物として当たり前の反応だとか、人道とか、全然関係ありません。
前にも書いたことがありますが、メタフィジカルなコスモスというのは、
エネルギーが強い、弱い、加速する、減速する、接近する(引き寄せる)、離れる、
帳尻が合う合わない、方向、角度、
といった力学だけで動いています。だってそれしかないから。
なので、思いやりや善意や正義の下に潜んでいる怖れ、混乱、怒り、悲しみ、
「ものごとが衰滅に向かうのは望ましくない」というジャッジメント、
「放っておくとものごとは衰滅に向かう」という、思考の土台となるメタ思考としての時間思考、
そういうのが全部、洗いざらいカウントされて力学換算されます。
そういうのが、表向きの回復や改善を指向するエネルギーと混じって、
総じてものすごくノイジー(騒々しい、支離滅裂)になります。
なので、最初にしたほうがいいことは、
何かしなければ、という気持ちや気分が「ある」のを観察して、終わらせ、通過させることです。

「かつて、神官や僧侶といったエネルギーワークのエキスパート集団が存在していた」
という知識データがあったり、
人によってはそれが知識に留まらない生々しい記憶データとして起動する(過去世や異界で
そういう人生を経験したのではなく、自身のこの物理像‐マインドとリンクしてアクティベート
される)というのも、
俗世的マインド反応から離れた立ち位置から行われるのでないと、
メタフィジカルなコスモスの調整は実効力が弱まる、ということを意味しています。

メディアのニュース、速報などを見聞きしたり、人の話から誰かの近況を聞いて、
ざわざわと気持ちが揺れ動く。不安な気分になる。
それはニュースや話の「向こう側」で本当の出来事が起きているからではありません。
ここで起きていることは、声や身ぶりや表情や文字といった情報に接した、それだけです。
その情報が、ざわざわや不安を喚起している。
それらが喚起されるのは、「向こう側」で出来事が起きているという空間思考のせいばかりでなく、
おそらく、個人的な経験記憶や、記憶をつないだ物語も活性化しているためでしょう。
反射的に想像される「向こう側」の出来事以上のことが、マインドで起きています。
ヒーリングしたほうがいいのは、まずここです。

加えて何らかのエネルギーワークとか、直接の連絡、支援などダイレクトなアクションを
促されているかどうかは、クリアになればはっきりするでしょう。
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  1. 2018/06/22(金) 14:04:35|
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人類とは誰のことか

2018.6.11(月)

<人類>というのは個人の思考である。
ある人が人類のことを考えているとき、その人の考える人類が、思考として存在している。
だって、<人類>に会って、つぶさに見て話を聞いて、頭数を数えた人なんて、
どこにもいないっしょ。
と、こういうのを中学生の理屈という。でもほんとのことでしょ。
同じ中学生の理屈でいくと、この「ある人」ってのは、私が認識している世界に属していて、
「どこ」ってのも私が認識している不特定の場所のことである。

私がメディアのニュースで、ある情報を知ったとして、
その情報は、私が認識する世界では、画像や音声や文字がつくる情報として存在する。
ニュースの向こう側で、本当にその事件が起きているわけではない。
本当の事件というのは、私が認識する世界に、事件として現れる。
画像や音声や文字がつくる情報に対して、何らかのアクションをすることもあるが、
それは情報の向こう側で本当に何かの出来事が起きているからではなくて、
画像や音声や文字がつくる情報に対して特定のアクションをするようにと、
私が認識している世界の側から促してくるからだ。
感情や気分が反応してざわざわすることもあるが、私の場合、
ざわざわからアクションすることはなくなった。

以上のように、私にとっては<人類>は概念(思考)なのだけども、
私の認識する世界には、どうもガチで人類がいることになっているっぽい人も住んでいる。
私が認識する世界には、「人類」という言葉に対し、
次の3つのとらえかたをする人が住んでいるようである。

①<人類>は実際にいるという前提で世界像を構築している人。
②<人類>が概念(思考)だと気づいている人。
この人は、<人類>という概念を、自身の認識世界にある思考のひとつとして扱っている。
たとえば、「人類」という言葉に接したとき、「あ、<人類>を想定した話ね」ととらえる。
③マインドを超えたところから感知される何らかの集合フレームに対して、
思考帯域で「人類」という訳語を当てている人。

③は何かというと、
夢やビジョンとして現れるケースもあるけども、基本的には信号でしかとらえられない、
言葉やイメージで直訳できない世界(アストラル帯域)に、
同胞ソウルとでも呼べばいいのか、大きなグループソウル的な連帯フレームが
あって、このフレームを「人類」と呼んでいるんである。

つい二、三日前、私は、私用語で「前期レムリア」と呼んでいる、
人が言語を介さず、ナマの信号のやりとりで交流している世界をチラ見した。
コンピュータでいうと、機械語ですらない、電気パルスで交信しているような感じ。
しかしこれとて、個体宇宙で起きている自作自演交流である。

たとえばAさんが認識する世界、つまりAさんの宇宙に、B、C、Dなどの人たちが
住んでいるとすると、この人たちは、
Aさんの“私”意識(エゴ)が自他分離して観察している局面では、それぞれ別人だが、
AさんのエゴがZero Point Fieldとつながって自他の区別を解消している局面では、
Aさんでもなければ、BでもCでもDでもなく、何者でもない。唯のZPFです。
にもかかわらず、これがAさんの個体宇宙になるのは、
自他分離しているときの統覚意識(観察者“私”)がAさんだから。
ハイアーセルフ‐高次帯域‐マインド帯域‐物理像(エーテル帯域に反映された物質波)、
上から下まで、どこをとっても、観察者=Aはぶれていない。
0/1帯域で生じた“私”意識は、数多の視角に分かれ、それぞれの視角から、
個々の宇宙を観察/創造している。
この個体宇宙の頂点(それぞれの視角の始点)がハイアーセルフです。
そういうAさんの宇宙で、AさんはB、C、Dなどの人たちとパルス交流している。
リニア時間を想定したうえで「現代」と呼ばれている世界でも、高次帯域はパルス交信ですが、
「前期レムリア」世界の特徴は、この交信方式がマインド帯域でも変わらず、
言語のような象徴体系がないことです。
これがいくらか言語に近づき、機械語交信になったのが、私用語で「後期レムリア」または「ムー」、
アセンブリーになったのが「アトランティス」です。

レムリアとかアトランティスとかっていうのは、
「現代」とは異なる特徴をもった世界の呼び名であって、
そういう文明が実在した、いや実在していなかった、という話ではありません。
そういう世界は「現代」と重なって、個体宇宙のどこかの周波数帯を成しています。
こういう世界が「過去世記憶」として、また「現代」との重なりが「転生記憶」として
思い出される場合、リニア時間形式を使ってファイルを開いているだけで、
それは異なる世界へのアプローチのしかたのひとつです。
もし「多くの転生を重ねた」という実感があるとすれば、
多くの別世界に通じている、アカウントをもっているということです。
アプローチのしかたはそれだけではなくて、要は周波数が合うとファイルが開くので、
瞑想してるときとか、何かの拍子にふっとつながることもある。

さて、高次帯域では、自他分離局面での他者との交流はパルス交信方式ですから、
上述の②の人でも、観察を重ねて、“私”(エゴ)が研ぎ澄まされてくると、
パルス方式は実感されてきます。
③の人とのちがいは、③の人の場合、
やりとりの頻度が高い対象範囲(同胞的フレーム)と、「人類」という概念とがリンクしていること。
②の人には、そのようなリンクがありません。
この「人類」概念は、言語による思考というよりイメージです。
同胞的フレームと「人類」のイメージがリンクしている理由は、
アカウントをもっている別世界とのかかわりにあるようです。
レムリアとか、古代とか、どこかの時代のどこかの地域のクラン(氏族)といった形で、
あるいはどこかよその星のなんとか族といった形であっても、
別世界がマインド帯域で翻訳変換されて開くとき、
翻訳ツールとして使われるイメージに、同じマインド帯域の「人類」イメージと親近性がある。
たとえば直立二足歩行といった外見の特徴とか、ジェンダーとして翻訳される二極性があるとか、
似たような感情反応をするとか。
つまり、③の人たちの「人類」イメージは、さまざまな別世界の同胞的フレームの別称です。

しかし、「現代」世界で、思考と対応した言語で示される「人類」は、
非常に多様な人間坩堝をひとつにくくる概念であり、
上述のような同胞的なフレームと対応させるにはムリがあります。
意識の広がり度合もばらっばらで、パルス交流にはほど遠く、
ひとつの象徴記号(言葉など)が、いくつもの意味、何十ものニュアンスを帯びて拡散します。
言葉で「いいよ」と言いつつ、パルスで「だめ」と伝えていることも珍しくありません。
少なくとも、私が認識している世界ではそう。
同胞的フレームを翻訳した「人類」と、<人類>の実態は大きくかけ離れています。

では、③の人が自身の宇宙で感じている同胞的フレームがアクティベートされると、
マインド帯域‐物理像でどんなふうに具体化するかというと、
・それぞれの“私”が認識する世界での交流がパルス的になる
(Aさんの場合だと、Bさん、Cさん、Dさんなどとのやりとりがパルス交流に近づく)
・個体宇宙の高次帯域とのやりとりがスムーズに、自在になる
といったように、それが及ぶ範囲は、それぞれの“私”が認識する世界です。
ざっくりいえば、リアル、バーチャル問わず「隣人」範囲に波及するといっていいでしょう。

私が認識している世界すなわち私の個体宇宙には、
意識の広がり度合もさまざまなら、アプローチのしかたもちがう人たちが住んでいます。
で、私の個体宇宙から私に求められているのは、
これらの人たちに連帯を呼びかけたり、
想像力を広げて共感する努力をすることではなく、
このばらばらさ加減をばらばらなまま承認し、それぞれのやりかたを尊重することです。
物質還元主義に立つ人も、私とはちがうメタフィジクスを展開している人も、
まちがってません。
「関係ない」という関係が築けることは、共存の鍵です。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』には、修道僧のゾシマ長老に、
「私は人類のために奉仕したい気持ちでいっぱいだけど、
人類愛に燃えれば燃えるほど、身近な人たちが嫌いになる」と訴える女性が出てきます。
この人にとっての本当の「人類」は、嫌いになっていく身近な人たちで、
何かあるごとにこいつ嫌いとか許せないと感じるのを認めることと、
そう感じることで自分を責めないことが、愛の実践のはじまりではなかろうかと思った。
  1. 2018/06/11(月) 16:58:38|
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空間のひみつ

2018.5.11(金)

空中から物体を出したり、歩いたり電車に乗ったりせずに目的地に着いたり、
ボールに切れ目を入れずに裏返せたりする人がいるらしい。
らしい、というのは、どれも、いわゆる精神世界系の本で読んだエピソードで、
自分の目でシカと見たわけではないからだ。
ありえないとか、インチキをしているはずだ、とは思えない。
物理事実でも人心の変化でも、起きるかどうかは確率の問題で、
一般的には非常に起きる確率の低い出来事が高い確率で起きることもあるんだろうな、
と思う。

上述のようなことができる人は、自覚があってもなくても、
空間の感じかたを「標準モード(地球人の仮想集合システムに則った感じかた)」から
「自在モード」に切り換えることができるのだろう。
たとえば空中からバッグをとり出せるのは、そこにバッグがある、という視覚的、触覚的な
感じがあるからである。そういうリアリティの物理像になっている。
こんなのは、「出せるから出せるんだ」と言ってるのと同じだけど。

時間は、場の順序と開きかた(テンポ、速度)についての仮定であり、
空間は、位置と広がりかたについての「こうだとすると~」という仮定である。
エーテル波が物質波を反映させて質感をつくる物理場に映しだされる物理像では、
空間の仮定条件は「エーテル設計図が物質波でできていたらどうなるか
=物質でできているとするとどう感じられるか」で、
この条件を入力して出力される結果は面的、あるいは膜的である。立体じゃなく。
在地球人間型意識体は、この面的物理像を、マインド帯域の思考領域で「立体」に変換する。
小さく見えるものがだんだん大きく見えれば近づいているとか、
大きな音がだんだん小さくなったら遠ざかっているとか、
同じ触覚がしばらくつづいて突然途切れたら、つづいた分の奥行きをもつとか、
感覚の差を距離や高さ、奥行きに変換して、思考で立体だと理解している。
実際には、ある形や色が見える、ある音が聴こえる、ある感触を感じる、
といった体性感覚の総合図しかない。
立体という概念に慣れていると、この総合図を「面」とするには抵抗があるが、
複数の感覚が配置された「面」としたほうが、立体よりも実態に近い。

時間についても同様のことが言える。
物理像というのはそこで完了している、時間の尺に当てはめれば直近過去であり、
これを含めた時間の流れ(プロセス)は思考でしか組めない。
物理像で自他分離した“私”は、完了した感覚総合図しか認識しておらず、
そこにはプロセス(時間)も立体(空間)もない。

しかし、思考でプロセスや立体を立ち上げるとしても、
それ自体は別に意識の広がり(アセンション)を制約しない。
制約するとは、時間思考や空間思考が「こうでしかない」というふうに硬直していて、
「これもありだけど、これ以外のとらえかたもある」という柔軟性がなく、
自在に使えなくなっていることを意味する。
時間についての制約は、「誕生→成長→成熟→老化→消滅」といった生滅盛衰方向
(エントロピー)を「こうでしかない」と一義的に決め込んでいることだった。
これを支えているのが過去の場面がずんずん累積していくというフィボナッチ思考である
(1、2、3、5、8、13・・・と、1つ前の数字が足されていくフィボナッチ数列のような思考)。
では空間についての制約はどんなものか。
それは、「(物体には)内部がある」という思い込み(合意現実)が強力だということだ。

内部がある、というのは、思考で立体を想定したときの、見かたの1つにすぎない。
プロセスが生滅盛衰の方向に限られないように、
立体を想定したからといって、内部が必然というわけではない。
というか、物理像の実態に即すと、むしろ内部なんてないんだよ。
感覚の総合図は面的で、面には内部なんてないんだから。

内部がないとはどういうことか。
たとえば箱を開けたらケーキが出てきたという時空連続プロセスの場合、
「箱がある」「箱のフタを開く」「開いたボール紙のうえにケーキがある」
というのは、それぞれ別の場面、別の物理像だということです。
この伝でいくと、身体(像)の内部、筋肉とか内臓とかの器官も、
たとえば手術をするとか、内部そのものではないにしてもX線やCTの画像として見るとか、
そういう場面にならないと出現しないということになる。
鏡を見て口を開いたときに出現するのは、
歯や舌や口蓋、その奥(奥という言いかたは立体を設定している)の黒い穴であって、
穴の向こうの気道だとか食道だとかは現れていない。
建物や機械の修理とか、内部を想定してアプローチしたほうが実用的なこともあるが、
物理像の空間構成方法がそれしかないわけではない。

ソファイア@シリウスというentityの指摘によって、私が上記のことに気づいたのは3月半ば、
それからこうして文字にするのに1か月半くらいかかっているのは、
信じられないとか半信半疑だからというんではなくて、
逆にわりとあっさり納得できてしまったんだけど、
これを書いたり口外したりしたら、すっげえ変なやつになるな、中二病極まれり、
というビビリが私の思考領域にあったからです。

でも、だったらしゃっくりを「内部」思考なしで止めてみようと思って、
空中にテキトーに「しゃっくりを起こしている点」と、別の点(これは「しゃっくりを起こしている
点」以外の点=しゃっくりを起こしていない点で、どこでもよい。これもテキトー)の2点を
指さしするようにして設定し、両方の指先に感じる感覚を感じつづけるというヒーリングを
してみたら、数秒で止まりました。
↑これは『瞬間ヒーリングの秘密』(フランク・キンズロー著/ナチュラルスピリット)という本で
紹介されている「クォンタム・エントレインメント(QE)」を応用したやりかたです。

以下はさらにオカルト寄りの情報。
内部構造という形で現れる物理像は、エーテル帯域上に、
さまざまな周波数をもつ波動の組み合わせ=信号として設計されていて、
ソースコードでは、いろんな信号で構成された膜みたいになっているようです。
内部ではなく、面状に広がる図面に近い。
その全部が物理像化するわけじゃなく、隠しコードもたくさんある。
私はエーテル体が見える人ではないんだけど、
見える人には、地球人の仮想集合システム仕様に合わせて、
身体外部に沿ったスケルトン構造として見える場合もあるみたいです。
  1. 2018/05/11(金) 18:19:52|
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地球のいろいろな形

2018.2.2(金)

地球は球体である。いや平面だ。いや凹面だよ。球体だけど、なかは空洞なのさ。
どれも正解だよ。

「恒星」「惑星」「地球」といった単語を入力するたびに、
図鑑や映像で見た、暗い空間に浮かぶ球形の星々のイメージが浮かんで、
あれじゃないんだけどなー、けど言葉だとそう言うしかないし、と、もやもやしていた。

私の視覚(一般的な言いかたをすると人間の視覚)は奥行きを知覚できない。
物体の大きさによって遠近感ができ、この遠近感があると立体だというお約束になっているので、
自分は立体のなかにいる、その自分も立体だと思い込んでいるけど、
本当のところ、動くにつれ物の大きさが変わる面(2次元)しか見えてない。
聴覚や触覚を使うと、腕を伸ばしたら手が何かにふれた感じがするとか、
小さく聴こえていた音がだんだん大きくなって、音質も変わるとかいったことによって、
奥行き感のリアリティが増すけれど、
それもそういう変化があれば立体だというお約束になっているだけで、
生のデータとしてはさまざまな感覚の変化があるだけである。
つまり私は、次の2つの要因によって、特定の立体像を体験していることになる。
(A)視聴覚などの体性感覚の情報
(B)(A)と、その変化を定義づけるルール
たとえば、「(A)がこれこれのように変化すれば、それは奥行きである」と定義される。
(B)は私がとくに意識せずに適用した思考方法のひとつ(この場合は空間認識のしかた)で、
私の主観世界にいる人たちには共有されていると推察する(推察できるだけで断言はできない)。
いったん定義されると、(A)は(B)に沿って規格化されて認識され、
(B)が(A)の土台であるかのような転倒が起きる。
私は「奥行きを感じている」かのように思うが、奥行きは思考であって感覚ではない。

ということは、(A)(B)どちらが変化しても、あるいは両方変化することによって、
体験される像は変わることになる。

(A)は視点が変わるだけで変わる。
(A)(B)で空間を把握している私は、
世界を、いくらか凸凹のついた平面の構造物として認識している。
しかし、乗り物などでうんと上方に行けば、
足元は相変わらず平面だが、曲面になった大地や海が見えてくるかもしれない。
もっと上方に行けば、乗り物の底面は平面でも、外に球体が見えるかもしれない。
①平面の構造物、②曲面の大地や海、③球体、
(A)だけでシンプルに区別すれば、それぞれは異なる感覚からなる別々の像だが、
(B)を含む共有ルールを適用して、どれも同じで見えかただけがちがうとすれば、
平面でも曲面でも球体でも、どれも「地球」という名前で呼べる。
夢のなかや、超物理像帯域であるアストラルスペースなら、乗り物の底面なしで、
身体像の周り、あるいは“私”意識の広がりしか感じていないかもしれない。
そこで球体が見えて、(B)のルールと照合して「あれは地球だ」と思えば、
それは夢のなかの感覚やアストラルスペースでの感覚で構成された地球である。
自分は凹面の地球を見たとか、地中に空洞があるのを見たという人がいるなら、
それはそうなのだろう。
「本当の地球」というのは、(B)の定義を幾重も重ねてできた概念である。

もしフラットアース説(地球平面説)を主張するなら「私にはそう見えますが」というだけで十分で、
NASAがデータを隠したり改ざんしたりして球体だと信じ込ませている等の、いわゆる陰謀論で
補強する必要はない。
着地点が「本当の地球」という公理の転換にあるのなら、そのサイエンスに依拠する追究姿勢は、
むしろNASA的ではないかしらん。

(A)を変化させる視点は、“私”の視点である。
だから、観察者/創造者である“私”意識が観察のポイントを変えればそれは即創造であり、
(A)が変化し、別の像が開く。
視点が変わるとは、(A)の様相が大きく変わって、別のスペース(場)に移るということである。
実際、身体の姿勢をちょっと変えただけでも景色は変わる。
そのことは(B)に染まっていると当たり前すぎて意識すらされないが、
別のスペースがONになるという飛躍的なことが起きている。

それは次のような見かたにも通じる。
ここに、ある問題があるとする。
それが悩ましい問題なのは、問題としてとらえる視点からとらえているからであって、
視点がそこ以外のどこかにズレれば、問題ではなくなる。
(問題を問題としてとらえる視点は1つだが、それ以外のどこかはたくさんある。)
そのようにして、すべての問題は問題ではない。
問題を問題だととらえることすら、問題ではない。
そのようにして、問題は問題にするのをやめると自然消失する。

宇宙とは、図鑑や映像で見たあれではなくて、(A)がつくる像のことである。
幽霊が見える人には、幽霊は存在する。「だっているし」という根拠以外、根拠はない。
それは目の前にマグカップが見えるのと同じだ。
もし幽霊が見えるのは脳の器質や機能とか、磁場とかのせいだすると、
マグカップのほうも脳の器質や機能や磁場などによって見えている可能性がある。
また、私とは(一般的な言いかたでは人間とは)(A)が異なる動植物は、それぞれ独自の宇宙を
観察しているだろう。ある動物が感じる地球は、三角形で構成される四面体かもしれない。
そのことが中二病的な理屈とか精神世界チックなドリームとして理解されるのではなく、
端的にスッと腑に落ちると、感覚できる範囲は五感+身体内感覚を超えて広がる。
(B)の定義は、法則ではなく見解の1つになり、拘束力がなくなる。
サイキッカーとは、自覚があってもなくても、場合により(B)をミュートできる人のことである。
  1. 2018/02/02(金) 19:52:43|
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質問と答

2017.11.9(木)

昨秋くらいからだったか、もう記憶もオボロなくらい指導教官から音信がなく、
いよいよ破門、除名、デリート、かしら? という気でいたところ、
ナンバーディスプレイにチも凍るような番号が出現した。甘かったわオレ。

こちらから文字や音声でもってお訊ねしようか、そうすべき? と思った機会は、10回くらいはある。
お訊ねしなかったのは、直接には「怖い」からだけど、私の場合、この怖さは有意義である。
ルシファー、チーム・ソフィア@シリウス、指導教官(←同一フォルダ?)、
怖いものには怖いなりの意義がある。
自分が「思いついた」「考えた」質問なんか、本当に訊きたいことじゃないのだ。
万一、指導教官が癒し系の、ふわっとした、人間的な女神感満載な方だったら、
私はロクでもない質問を列挙し、その問答でわかった気になってしまっていたかもしれない。

本当に訊きたいことは、天空から自然発生する。
問いは、問いのほうから降ってくる。
同時に答も。
問いは答の、答は問いの裏側だから、必ず対になっていて、
どちらも必ずわかるようになっている。
落とし込みに1秒かからないこともあれば、何年もかかることもある、けど、どのみちわかる。
すべてわかっているところから、問いと答、思い出す、というプレイをやってるだけだから。

問いのほうからやってきた問いでさえ、自問自答でケリがつく。
自然発生した問いを他者に投げるときは、問い自身が「そうしてください」と言ってるときだ。
そのとき、当の他者は他者という姿形をした自分であり、
ともに問いのフィールド(場)に居る。同じ波に乗っているといってもいい。
実用的な表現をすれば、
自分が思いついたり考えたりしたのではない質問が、前後の脈絡も記憶回路も無視して、
「あれっ、そういえばどうしてこうなんだろう?」的に起動し、
同時に、誰かに伝達しないといけない用件を思い出すとか、
かかわること全部が有機的につながって、考えてるようなタメがなくアクションが起きるとき。
↑このプロセスは、実感としては神秘的ではなく、案外事務的に進む。

そうでなければ、他者に質問だの相談だのをもちかけてはいけない。
波動がユニゾンになったり和音になったりしておらず、ズレているのだから。
まして自分が「思いついた」「考えた」質問なら、まず自分自身が問いとズレている。
他者を巻き込むべきときでないときに強引に巻き込もうとすると、
相手に迷惑云々という以前に、自身のカルマゾーンを強化してしまう。
だから、私と縁のある誰かが私の訊いたことに答えてくれなかったり、メール等をスルーするとすれば、
ただめんどくさいだけだとしても、結果的には最大限に誠実で親切なのである。
冷淡だと思われたくないとか、相手との関係を保持しておこうとするカルマ反応にしたがって、
社交辞令に色をつけたくらいの返答をすることだってできるんだからね。

もっとも、物理像ワールドにはカルマゾーンのリリースをサポートする役割の人もいるので、
個人面談を申し込むとか、所定の手つづきをへて応対に至るのなら話は別。
しかし、専門職の人とて、できることはお手伝いだけである。
自分の宇宙のことは、自分が宇宙として気づくしかない。

自分が質問を「思いつく」とき、
または自然発生した問いの声を無視して他者とコラボしたいと欲するとき、
カルマゾーンには次のような思いがウズ巻いている。
①自己正当化の根拠がほしい~「あなたの予感は正しい」と保証してほしい
②相手の言動を自分のメタフィジカルパノラマを造るパーツにしたい(①のヴァリエ)
③相手との関係強化が目的~「歪んだコミュニケーション」by 指導教官w
これらは「あ、こいつか」と気づいて、頭をなでてあげれば(承認すれば)、そこで終わる。
これらはエゴコードのエラー(分離しっ放しで融合へと回収できない)から生じたウソ自我の運動で、
要するに「ホメて、ねえ、ホメて」と訴えてるだけだ。単純。

指導教官が怖いのは、教官は、私が発声する前のブレスから、あるいはメールの件名を見た瞬間、
用件がカルマゾーン発かそうでないかを見抜いてしまうからだ。
これは“超“能力とかじゃなくて、ものごとを波動でとらえていれば誰でもわかるんだけどね。
チーム・ソフィアも然り。
「闇とは何ですか?」とか「私はなぜ地球にいるのでしょうか?」とか、
チャネスクでする練習みたいな真摯でない質問でもしようものなら、
よくてカミナリ、わるくするとこっちが自己欺瞞に気づくまで延々デンワの保留メロディー状態。
本当にチャネスクの練習なら、練習ということにおいて真摯だから、別にいいんだけどね。
そうなるのは教育的意図からではなく、ウソやフェイクがあると周波数が合わなくなっちゃうから。

天空から生じる波動を、波動に内在するエネルギーのままに、波動が意図する方向へ、
自分あるいは他者の形をとる自分に伝える、
というのは、対エンティティに限らず、すべての交信の基本である。
物理像ワールドを開いてるエンティティ=人間対人間でもそれは同じ。
人間間のコミュニケーションでは、①~③の動機は問われず、
ときにそのような動機での言動の表出を勧められることすらある。身内や友人ならなおのこと。
私たちはしゃべりすぎるし、書きすぎる。
見ても読んでもいないのに、見すぎるし、読みすぎる。
リニア時間上でのいずれ、人はもっとずっと寡黙になり、本当の意味で雄弁になるだろう。

本当にスロートチャクラが活きている人は、余計なことはしゃべらない。
人里離れた土地にこもるマスターは、人里離れた場などないということを知っている。

同日の追記

というわけで、私も原則として質問には答えないし、相談にも応じません。
メール等も、場合によっては返信しないこともあります。
なぜこうなるのか? どうしたらいいのか? これは何なのか?
「わからない」というのは途方もなく豊かな体験です。
「わからない」ことを慈しんでください。私もそうします。
  1. 2017/11/09(木) 22:16:04|
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プロフィール

みけ@猫科ホールディングス

Author:みけ@猫科ホールディングス
イタリアの美少年のような女(豹専務)
と同居してるGID
(ジェンダー・アイデンティティ・ディスオーダー)。
人間(♀)仕様だが
中身は外来種(宇宙人)らしい。
血液型:みけ&豹専務とも超B型。
リンクはご随意に。
連絡も不要です。

出版案内3

『ようこそ☆ゼロポントフィールドへ』をパブーで電子出版しました(無料)。「この本を開く」ボタンをクリックするか、ファイルをダウンロードしてお読みください。

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