ソロ・パブリッシュ

エア充。

空間のひみつ

2018.5.11(金)

空中から物体を出したり、歩いたり電車に乗ったりせずに目的地に着いたり、
ボールに切れ目を入れずに裏返せたりする人がいるらしい。
らしい、というのは、どれも、いわゆる精神世界系の本で読んだエピソードで、
自分の目でシカと見たわけではないからだ。
ありえないとか、インチキをしているはずだ、とは思えない。
物理事実でも人心の変化でも、起きるかどうかは確率の問題で、
一般的には非常に起きる確率の低い出来事が高い確率で起きることもあるんだろうな、
と思う。

上述のようなことができる人は、自覚があってもなくても、
空間の感じかたを「標準モード(地球人の仮想集合システムに則った感じかた)」から
「自在モード」に切り換えることができるのだろう。
たとえば空中からバッグをとり出せるのは、そこにバッグがある、という視覚的、触覚的な
感じがあるからである。そういうリアリティの物理像になっている。
こんなのは、「出せるから出せるんだ」と言ってるのと同じだけど。

時間は、場の順序と開きかた(テンポ、速度)についての仮定であり、
空間は、位置と広がりかたについての「こうだとすると~」という仮定である。
エーテル波が物質波を反映させて質感をつくる物理場に映しだされる物理像では、
空間の仮定条件は「エーテル設計図が物質波でできていたらどうなるか
=物質でできているとするとどう感じられるか」で、
この条件を入力して出力される結果は面的、あるいは膜的である。立体じゃなく。
在地球人間型意識体は、この面的物理像を、マインド帯域の思考領域で「立体」に変換する。
小さく見えるものがだんだん大きく見えれば近づいているとか、
大きな音がだんだん小さくなったら遠ざかっているとか、
同じ触覚がしばらくつづいて突然途切れたら、つづいた分の奥行きをもつとか、
感覚の差を距離や高さ、奥行きに変換して、思考で立体だと理解している。
実際には、ある形や色が見える、ある音が聴こえる、ある感触を感じる、
といった体性感覚の総合図しかない。
立体という概念に慣れていると、この総合図を「面」とするには抵抗があるが、
複数の感覚が配置された「面」としたほうが、立体よりも実態に近い。

時間についても同様のことが言える。
物理像というのはそこで完了している、時間の尺に当てはめれば直近過去であり、
これを含めた時間の流れ(プロセス)は思考でしか組めない。
物理像で自他分離した“私”は、完了した感覚総合図しか認識しておらず、
そこにはプロセス(時間)も立体(空間)もない。

しかし、思考でプロセスや立体を立ち上げるとしても、
それ自体は別に意識の広がり(アセンション)を制約しない。
制約するとは、時間思考や空間思考が「こうでしかない」というふうに硬直していて、
「これもありだけど、これ以外のとらえかたもある」という柔軟性がなく、
自在に使えなくなっていることを意味する。
時間についての制約は、「誕生→成長→成熟→老化→消滅」といった生滅盛衰方向
(エントロピー)を「こうでしかない」と一義的に決め込んでいることだった。
これを支えているのが過去の場面がずんずん累積していくというフィボナッチ思考である
(1、2、3、5、8、13・・・と、1つ前の数字が足されていくフィボナッチ数列のような思考)。
では空間についての制約はどんなものか。
それは、「(物体には)内部がある」という思い込み(合意現実)が強力だということだ。

内部がある、というのは、思考で立体を想定したときの、見かたの1つにすぎない。
プロセスが生滅盛衰の方向に限られないように、
立体を想定したからといって、内部が必然というわけではない。
というか、物理像の実態に即すと、むしろ内部なんてないんだよ。
感覚の総合図は面的で、面には内部なんてないんだから。

内部がないとはどういうことか。
たとえば箱を開けたらケーキが出てきたという時空連続プロセスの場合、
「箱がある」「箱のフタを開く」「開いたボール紙のうえにケーキがある」
というのは、それぞれ別の場面、別の物理像だということです。
この伝でいくと、身体(像)の内部、筋肉とか内臓とかの器官も、
たとえば手術をするとか、内部そのものではないにしてもX線やCTの画像として見るとか、
そういう場面にならないと出現しないということになる。
鏡を見て口を開いたときに出現するのは、
歯や舌や口蓋、その奥(奥という言いかたは立体を設定している)の黒い穴であって、
穴の向こうの気道だとか食道だとかは現れていない。
建物や機械の修理とか、内部を想定してアプローチしたほうが実用的なこともあるが、
物理像の空間構成方法がそれしかないわけではない。

ソファイア@シリウスというentityの指摘によって、私が上記のことに気づいたのは3月半ば、
それからこうして文字にするのに1か月半くらいかかっているのは、
信じられないとか半信半疑だからというんではなくて、
逆にわりとあっさり納得できてしまったんだけど、
これを書いたり口外したりしたら、すっげえ変なやつになるな、中二病極まれり、
というビビリが私の思考領域にあったからです。

でも、だったらしゃっくりを「内部」思考なしで止めてみようと思って、
空中にテキトーに「しゃっくりを起こしている点」と、別の点(これは「しゃっくりを起こしている
点」以外の点=しゃっくりを起こしていない点で、どこでもよい。これもテキトー)の2点を
指さしするようにして設定し、両方の指先に感じる感覚を感じつづけるというヒーリングを
してみたら、数秒で止まりました。
↑これは『瞬間ヒーリングの秘密』(フランク・キンズロー著/ナチュラルスピリット)という本で
紹介されている「クォンタム・エントレインメント(QE)」を応用したやりかたです。

以下はさらにオカルト寄りの情報。
内部構造という形で現れる物理像は、エーテル帯域上に、
さまざまな周波数をもつ波動の組み合わせ=信号として設計されていて、
ソースコードでは、いろんな信号で構成された膜みたいになっているようです。
内部ではなく、面状に広がる図面に近い。
その全部が物理像化するわけじゃなく、隠しコードもたくさんある。
私はエーテル体が見える人ではないんだけど、
見える人には、地球人の仮想集合システム仕様に合わせて、
身体外部に沿ったスケルトン構造として見える場合もあるみたいです。
スポンサーサイト
  1. 2018/05/11(金) 18:19:52|
  2. フィロソフィア(愛知)
  3. | トラックバック:0

地球のいろいろな形

2018.2.2(金)

地球は球体である。いや平面だ。いや凹面だよ。球体だけど、なかは空洞なのさ。
どれも正解だよ。

「恒星」「惑星」「地球」といった単語を入力するたびに、
図鑑や映像で見た、暗い空間に浮かぶ球形の星々のイメージが浮かんで、
あれじゃないんだけどなー、けど言葉だとそう言うしかないし、と、もやもやしていた。

私の視覚(一般的な言いかたをすると人間の視覚)は奥行きを知覚できない。
物体の大きさによって遠近感ができ、この遠近感があると立体だというお約束になっているので、
自分は立体のなかにいる、その自分も立体だと思い込んでいるけど、
本当のところ、動くにつれ物の大きさが変わる面(2次元)しか見えてない。
聴覚や触覚を使うと、腕を伸ばしたら手が何かにふれた感じがするとか、
小さく聴こえていた音がだんだん大きくなって、音質も変わるとかいったことによって、
奥行き感のリアリティが増すけれど、
それもそういう変化があれば立体だというお約束になっているだけで、
生のデータとしてはさまざまな感覚の変化があるだけである。
つまり私は、次の2つの要因によって、特定の立体像を体験していることになる。
(A)視聴覚などの体性感覚の情報
(B)(A)と、その変化を定義づけるルール
たとえば、「(A)がこれこれのように変化すれば、それは奥行きである」と定義される。
(B)は私がとくに意識せずに適用した思考方法のひとつ(この場合は空間認識のしかた)で、
私の主観世界にいる人たちには共有されていると推察する(推察できるだけで断言はできない)。
いったん定義されると、(A)は(B)に沿って規格化されて認識され、
(B)が(A)の土台であるかのような転倒が起きる。
私は「奥行きを感じている」かのように思うが、奥行きは思考であって感覚ではない。

ということは、(A)(B)どちらが変化しても、あるいは両方変化することによって、
体験される像は変わることになる。

(A)は視点が変わるだけで変わる。
(A)(B)で空間を把握している私は、
世界を、いくらか凸凹のついた平面の構造物として認識している。
しかし、乗り物などでうんと上方に行けば、
足元は相変わらず平面だが、曲面になった大地や海が見えてくるかもしれない。
もっと上方に行けば、乗り物の底面は平面でも、外に球体が見えるかもしれない。
①平面の構造物、②曲面の大地や海、③球体、
(A)だけでシンプルに区別すれば、それぞれは異なる感覚からなる別々の像だが、
(B)を含む共有ルールを適用して、どれも同じで見えかただけがちがうとすれば、
平面でも曲面でも球体でも、どれも「地球」という名前で呼べる。
夢のなかや、超物理像帯域であるアストラルスペースなら、乗り物の底面なしで、
身体像の周り、あるいは“私”意識の広がりしか感じていないかもしれない。
そこで球体が見えて、(B)のルールと照合して「あれは地球だ」と思えば、
それは夢のなかの感覚やアストラルスペースでの感覚で構成された地球である。
自分は凹面の地球を見たとか、地中に空洞があるのを見たという人がいるなら、
それはそうなのだろう。
「本当の地球」というのは、(B)の定義を幾重も重ねてできた概念である。

もしフラットアース説(地球平面説)を主張するなら「私にはそう見えますが」というだけで十分で、
NASAがデータを隠したり改ざんしたりして球体だと信じ込ませている等の、いわゆる陰謀論で
補強する必要はない。
着地点が「本当の地球」という公理の転換にあるのなら、そのサイエンスに依拠する追究姿勢は、
むしろNASA的ではないかしらん。

(A)を変化させる視点は、“私”の視点である。
だから、観察者/創造者である“私”意識が観察のポイントを変えればそれは即創造であり、
(A)が変化し、別の像が開く。
視点が変わるとは、(A)の様相が大きく変わって、別のスペース(場)に移るということである。
実際、身体の姿勢をちょっと変えただけでも景色は変わる。
そのことは(B)に染まっていると当たり前すぎて意識すらされないが、
別のスペースがONになるという飛躍的なことが起きている。

それは次のような見かたにも通じる。
ここに、ある問題があるとする。
それが悩ましい問題なのは、問題としてとらえる視点からとらえているからであって、
視点がそこ以外のどこかにズレれば、問題ではなくなる。
(問題を問題としてとらえる視点は1つだが、それ以外のどこかはたくさんある。)
そのようにして、すべての問題は問題ではない。
問題を問題だととらえることすら、問題ではない。
そのようにして、問題は問題にするのをやめると自然消失する。

宇宙とは、図鑑や映像で見たあれではなくて、(A)がつくる像のことである。
幽霊が見える人には、幽霊は存在する。「だっているし」という根拠以外、根拠はない。
それは目の前にマグカップが見えるのと同じだ。
もし幽霊が見えるのは脳の器質や機能とか、磁場とかのせいだすると、
マグカップのほうも脳の器質や機能や磁場などによって見えている可能性がある。
また、私とは(一般的な言いかたでは人間とは)(A)が異なる動植物は、それぞれ独自の宇宙を
観察しているだろう。ある動物が感じる地球は、三角形で構成される四面体かもしれない。
そのことが中二病的な理屈とか精神世界チックなドリームとして理解されるのではなく、
端的にスッと腑に落ちると、感覚できる範囲は五感+身体内感覚を超えて広がる。
(B)の定義は、法則ではなく見解の1つになり、拘束力がなくなる。
サイキッカーとは、自覚があってもなくても、場合により(B)をミュートできる人のことである。
  1. 2018/02/02(金) 19:52:43|
  2. フィロソフィア(愛知)
  3. | トラックバック:0

質問と答

2017.11.9(木)

昨秋くらいからだったか、もう記憶もオボロなくらい指導教官から音信がなく、
いよいよ破門、除名、デリート、かしら? という気でいたところ、
ナンバーディスプレイにチも凍るような番号が出現した。甘かったわオレ。

こちらから文字や音声でもってお訊ねしようか、そうすべき? と思った機会は、10回くらいはある。
お訊ねしなかったのは、直接には「怖い」からだけど、私の場合、この怖さは有意義である。
ルシファー、チーム・ソフィア@シリウス、指導教官(←同一フォルダ?)、
怖いものには怖いなりの意義がある。
自分が「思いついた」「考えた」質問なんか、本当に訊きたいことじゃないのだ。
万一、指導教官が癒し系の、ふわっとした、人間的な女神感満載な方だったら、
私はロクでもない質問を列挙し、その問答でわかった気になってしまっていたかもしれない。

本当に訊きたいことは、天空から自然発生する。
問いは、問いのほうから降ってくる。
同時に答も。
問いは答の、答は問いの裏側だから、必ず対になっていて、
どちらも必ずわかるようになっている。
落とし込みに1秒かからないこともあれば、何年もかかることもある、けど、どのみちわかる。
すべてわかっているところから、問いと答、思い出す、というプレイをやってるだけだから。

問いのほうからやってきた問いでさえ、自問自答でケリがつく。
自然発生した問いを他者に投げるときは、問い自身が「そうしてください」と言ってるときだ。
そのとき、当の他者は他者という姿形をした自分であり、
ともに問いのフィールド(場)に居る。同じ波に乗っているといってもいい。
実用的な表現をすれば、
自分が思いついたり考えたりしたのではない質問が、前後の脈絡も記憶回路も無視して、
「あれっ、そういえばどうしてこうなんだろう?」的に起動し、
同時に、誰かに伝達しないといけない用件を思い出すとか、
かかわること全部が有機的につながって、考えてるようなタメがなくアクションが起きるとき。
↑このプロセスは、実感としては神秘的ではなく、案外事務的に進む。

そうでなければ、他者に質問だの相談だのをもちかけてはいけない。
波動がユニゾンになったり和音になったりしておらず、ズレているのだから。
まして自分が「思いついた」「考えた」質問なら、まず自分自身が問いとズレている。
他者を巻き込むべきときでないときに強引に巻き込もうとすると、
相手に迷惑云々という以前に、自身のカルマゾーンを強化してしまう。
だから、私と縁のある誰かが私の訊いたことに答えてくれなかったり、メール等をスルーするとすれば、
ただめんどくさいだけだとしても、結果的には最大限に誠実で親切なのである。
冷淡だと思われたくないとか、相手との関係を保持しておこうとするカルマ反応にしたがって、
社交辞令に色をつけたくらいの返答をすることだってできるんだからね。

もっとも、物理像ワールドにはカルマゾーンのリリースをサポートする役割の人もいるので、
個人面談を申し込むとか、所定の手つづきをへて応対に至るのなら話は別。
しかし、専門職の人とて、できることはお手伝いだけである。
自分の宇宙のことは、自分が宇宙として気づくしかない。

自分が質問を「思いつく」とき、
または自然発生した問いの声を無視して他者とコラボしたいと欲するとき、
カルマゾーンには次のような思いがウズ巻いている。
①自己正当化の根拠がほしい~「あなたの予感は正しい」と保証してほしい
②相手の言動を自分のメタフィジカルパノラマを造るパーツにしたい(①のヴァリエ)
③相手との関係強化が目的~「歪んだコミュニケーション」by 指導教官w
これらは「あ、こいつか」と気づいて、頭をなでてあげれば(承認すれば)、そこで終わる。
これらはエゴコードのエラー(分離しっ放しで融合へと回収できない)から生じたウソ自我の運動で、
要するに「ホメて、ねえ、ホメて」と訴えてるだけだ。単純。

指導教官が怖いのは、教官は、私が発声する前のブレスから、あるいはメールの件名を見た瞬間、
用件がカルマゾーン発かそうでないかを見抜いてしまうからだ。
これは“超“能力とかじゃなくて、ものごとを波動でとらえていれば誰でもわかるんだけどね。
チーム・ソフィアも然り。
「闇とは何ですか?」とか「私はなぜ地球にいるのでしょうか?」とか、
チャネスクでする練習みたいな真摯でない質問でもしようものなら、
よくてカミナリ、わるくするとこっちが自己欺瞞に気づくまで延々デンワの保留メロディー状態。
本当にチャネスクの練習なら、練習ということにおいて真摯だから、別にいいんだけどね。
そうなるのは教育的意図からではなく、ウソやフェイクがあると周波数が合わなくなっちゃうから。

天空から生じる波動を、波動に内在するエネルギーのままに、波動が意図する方向へ、
自分あるいは他者の形をとる自分に伝える、
というのは、対エンティティに限らず、すべての交信の基本である。
物理像ワールドを開いてるエンティティ=人間対人間でもそれは同じ。
人間間のコミュニケーションでは、①~③の動機は問われず、
ときにそのような動機での言動の表出を勧められることすらある。身内や友人ならなおのこと。
私たちはしゃべりすぎるし、書きすぎる。
見ても読んでもいないのに、見すぎるし、読みすぎる。
リニア時間上でのいずれ、人はもっとずっと寡黙になり、本当の意味で雄弁になるだろう。

本当にスロートチャクラが活きている人は、余計なことはしゃべらない。
人里離れた土地にこもるマスターは、人里離れた場などないということを知っている。

同日の追記

というわけで、私も原則として質問には答えないし、相談にも応じません。
メール等も、場合によっては返信しないこともあります。
なぜこうなるのか? どうしたらいいのか? これは何なのか?
「わからない」というのは途方もなく豊かな体験です。
「わからない」ことを慈しんでください。私もそうします。
  1. 2017/11/09(木) 22:16:04|
  2. フィロソフィア(愛知)
  3. | トラックバック:0

『反哲学入門』(追記あり)

2017.4.26(水)

すごい。おもしろい。
こんなにわかりやすい西洋哲学史は読んだことがなかった。
西洋哲学史がわかりづらいのは、
専門的な研究者であるか否かには関係なく、
西洋哲学という分野に入り込んでその内側から書いているものが
多いからだと思う。
木田さんは「哲学って西洋にしかないものの見かたで(「中国」哲学とか
「インド」哲学というのはヨーロッパ人の呼称で、自然発生したものでは
ない)、これって特殊な発想なんじゃないの?」
という自分の実感を出発点としており、
外国人が日本文化を語ったときに、そこに浸かっている人には見えづらい
輪郭線が浮かび上がってくる、みたいな感じで、
かえって見通しがよくなっている。

「反」哲学というのは、哲学に反対しているのではなくて、
ニーチェ以後、「自分たちが乗っかっているこの“哲学”という土台が
変なんじゃないか」と、西洋の内側から批判、見直し、解体の動きが
出てきたことをいう。
ソクラテスからヘーゲルあたりまでの哲学の本流に違和感をもつ木田さんは、
最初からポスト・ニーチェサイドにいるわけだけども、
本流に対して冷めてる目線があるために、
かえってその本流の変遷がよくわかるの。

だいたい哲学という訳語自体が、どんな学なのか全然イメージがわかない
言葉で、とらえどころのなさに拍車をかけているんだが、
これは最初は「希賢学」(賢をねがうの意。宋代の儒家の著書から、
フィロソフィア=愛知に近い言葉として選ばれた)になりそうだったのが、
あまりにも儒教くさいというので「賢」とほぼ同じ意味の「哲」に替えて
「希哲学」と訳したと。
それがどういうわけか一年後くらいに「希」の字がとれてしまって
「哲学」となったらしい。
訳者は西周助、後の西周(あまね)で、この方は、
幕府の洋学研究機関だった蕃所調所(ばんしょしらべしょ)というところに
勤めていて、日本ではじめて西洋哲学の講義をしているそうです。
幕府! でもって文久年間ですよ(@@)

それはそれとして、
ヘーゲルはフランス革命で人類(ってヨーロッパ人のことだけど)の歴史が
フィナーレに入り、次元上昇するってまじ思ってたらしく。
テルミドール事件が起きてもあまりこたえず、
ナポレオンに「世界精神」を幻視していたのだって。
ヘーゲルの2012って1789だったんだね。早。
(この能天気、私はきらいじゃないし、
歴史を終焉からはじめるという切り口は鋭いと思います。)

<本のデータ>

書名/反哲学入門
著者/木田 元(きだ げん)
発行所/株式会社 新潮社(2010年に新潮文庫としても刊行)
発行年月日/2007年12月20日
価格/1,500円+税(文庫版は520円+税)

4月27日(木)

同じ著者による『哲学散歩』(文藝春秋/2014年)によれば、
プラトンという名前を邦訳すると「ひろし」となるそうで。

プラトンという名は肩幅が「広い」ことからついた愛称で、
本名はアリストクレスというのだそうである。

その弟子のうち、
師の哲学の対旋律となる潮流をつくっていくアリストテレスは、
イケイケのマケドニア近郊の都市からの留学生で、金持ちで、オシャレで、
服も履物もたくさんもっていて、髪も短く刈り込んでむさくるしいところはひとつもなく、
ヒマな時間にマニキュアをかわかす女子社員のように(かどうかは知らないが)
いくつも指輪をした手を広げて、
「やっぱイデアってなくない? 誰も見たことないじゃん、あれって先生の妄想よ」
などと放言していたため、
ひろし先生にはウザがられていた、という説もある。

もしチャネリングしていて「ひろし」と名乗る高次意識体が入ってきたら、
それはプラトン@アセンデッドマスターかもしれない。
  1. 2017/04/26(水) 23:58:03|
  2. フィロソフィア(愛知)
  3. | トラックバック:0

死なない練習②(追記あり)

2016.7.14(木)

前回の記事「死なない練習」で言いたかった「問題」とは、
無為でいられない、ということです。
無為をイメージできないので。
5分前、今、30分後と流れていく線形時空間のなかで営まれる「生活」をしていると、
四六時中、何か作為しているので。
目の前に広がる場面は常に直近の過去で、「今」などという時はどこにもないということにすら、
生活していると気づけません。

人間の共同体のなかで、形になった規則や暗黙の規則に則って生活している人間は、
誕生と死という節目がない、
「見える(誕生から死まで)」と「見えない(誕生前と死後)」が地つづきになった、
プレーンな意識状態を知りません。
歴史上、一度も、経験していない。
古代の精神世界でさえ、この世とあの世、地上と天上を分けて描いていました。
それで、まるで時計があるかのように、歴史や、過去世や、未来世があるのです。
喜怒哀楽、愛別離苦、栄光や悲惨、大殺戮の過ちといった物語でぎゅうぎゅうになっています。
節目が消え、段差がなくなると、それらは全部データの塊として並置され、
0(起きていない)か1(終わっている)になります。
よって、歴史上の暴走を時空間上でループさせたくなければ、事実として認めて成仏させ、
思いをくっつけて共振したりしなければいい。

いまだかつて一度も経験していない。経験した人がいるとしても記録がない。
なので、じつは地つづきだと気づいても、立ち往生してしまうのです。で、
「気づいたあと、私は何をすればいいんですか?(とりあえず8時半までに粗大ゴミを出さないと
いけないんだけど@こころの声)」
と訊ねて、それも何度も繰り返し訊いて、天使や神仏や宇宙存在を愕然とさせるわけだ。

人によっては、こんな感じのルートをたどります。
①イメージした場面に着地するため、引き寄せの練習をする
       ↓       ↑(①②を何回か行き来する)
②無意識に①の足を引っ張っている思いを浄化する
       ↓         (生死の節目がないことに気づく) 
③イメージしたり計画したりするのをやめたい。でもやめられない

③まできた人というのは、いまだかつて誰も踏み込んでいない、前人未踏の岐路にいる。
イメージしたり、思い描いたり、計画したり、予定したりしない、生も死もない状態。
そんな、生活ではない生活を、誰も知らない。やったことがない。モデルもない。
もう「何をすれば」とか「どうすれば」という世界ではないのです。

だからといって、
エーテル界に物理層を映写した写像の物理世界=人間版の物理世界は慣性力が強いので、
はい、わかりました、と納得できたからといって、急に動きを変えられるものではない。
考える以前に身体が動いて、明日の準備をしたり、目覚まし時計をセットしていたりする。

となると、できることは脱力だけですね。
脱力しているとは、場面場面に余計な思いを積み増ししないこと、です。
すでに起きてしまった場面への一喜一憂を、その場の反射的な反応以上に長く引っ張らない。
習慣的にしてしまっていることに対し、「また急いでしまっている」とか「進歩がないな」とか、
自己批判をしない。他人批判もしない。
そうやって、物理世界の出来事を、なるべく軽く、淡々と、さらっと扱う。
これは、宇宙人版の自分から聞いたのですが、
いままでの人間のやりかただと、どんな思念でも、お祈りとかお願いごとでも、力を入れすぎる、
プッシュしすぎるのだそうです。
注意を払うとか集中するというのは、マイクロ秒とかナノ秒とかの一瞬、ノイズゼロの清澄状態に
なることで、5分間、眉根を寄せてマントラを黙唱しつづけることじゃないんだ、と。

そうして脱力していると、あとは積極的に何かしなくても、
向こうから瞑想状態がこちらへ浸透してくる。
これが、脱力と瞑想が重なった状態です。

これを延々繰り返すと、線形時空間生活のイメージ先どりの行動癖が遠のいていく。
習慣が変わるのです。

実感としてどうなるのかというと、
線形時空間に則った、つまりカレンダーや時計にしたがった、
だいたいルーティンなすごしかたをしていると、
その間に、垂直にスッスッと、直感的なサインが入るようになります。
壊れた品物を粗大ゴミに出そうとしていると、直前に「待て」のサインが入り、出さないでいたら、
その日、掃除をしているときに失くしたと思っていた保証書が出てきて、
品物を交換してもらえることがわかったりとか。
予定の変更、キャンセルなどに遭ったときでも、パニックにならずに、
事実を事実大のままに(膨らませずに)受けとめて、前のめりの対処をしないでおくと、
次の行動指針が入ります。
そうやって辻褄が合っていく。
脱力していないと(出来事を深刻に受けとめていると)、この垂直のサインがわかりません。
地味で、ドラマチックじゃなく、全然たいしたことない気がするのですが、こういうのが積み重なって、
これまでの線形的な成長とか発展のイメージでは描けない域に離陸していく。
この間に、どんなものをつくったとか、約束を守ったとか、人の賛意を得られたとか、
ほとんど物理面の結果だけを重視していた意識は、
瞑想状態へ、見えない世界のほうへと関心の的を移していきます。

生も死もないプレーンな意識状態とはゾーンである、と言ってもいい。
ゾーンについては、エクストリームスポーツのアスリートの心身状態をレポートした
『超人の秘密』という本を紹介した記事(2015.12.24 『超人の秘密』)に書きました。
つまり人類は、何のきっかけもなしに、途切れず終わらず、ずっとゾーンにいる状態を
経験したことがない。

自我を手放す、宇宙と、虚空と一体になる、神意識になる、ハイアーセルフになる・・・。
へー、するとどうなるの?
精神世界の言説が、「次」を問われたとたんに歯切れが悪くなるのは、
人類として未経験の域だからです。

7月15日(金)

瞑想状態は「今」ですね。
脱力している場面は線形で時空が移り変わっていくから、
これと瞑想状態が重なると、
生活のなかに「今」が立ち現れます。


これは、「今を生きよう」と心がけて、
細切れの場面に集中しようと努力して流されそうになっている状態とは、
まったくちがいます。

あー・・・これが物理世界版の「今」だったのかそうか、って感じ。驚き。

諸々の場面には線形の「はじまり」や「終わり」や「次」といった順序があり、
各場面はつながっているけど、
脱力していると、誕生→成長→老化→死、という大きな線形プロセスに呑み込まれない。
季節のめぐりのような周期性もない。
脱力していると、そこまで思いが(無意識に点線的に広げている分も含めて)及ばないのだ。
大きな線形プロセスや周期性は、力をこめた強い思念から生まれることがよくわかる。

なので、消耗しない。
どのプロセスも短い。コンテンポラリーダンスみたい。
  1. 2016/07/14(木) 17:52:00|
  2. フィロソフィア(愛知)
  3. | トラックバック:0
次のページ

プロフィール

みけ@猫科ホールディングス

Author:みけ@猫科ホールディングス
イタリアの美少年のような女(豹専務)
と同居してるGID
(ジェンダー・アイデンティティ・ディスオーダー)。
人間(♀)仕様だが
中身は外来種(宇宙人)らしい。
血液型:みけ&豹専務とも超B型。
リンクはご随意に。
連絡も不要です。

出版案内3

『ようこそ☆ゼロポントフィールドへ』をパブーで電子出版しました(無料)。「この本を開く」ボタンをクリックするか、ファイルをダウンロードしてお読みください。

出版案内2

『Starry Souls ☆ 宇宙人語り』の改訂版です。

出版案内1

『多次元対談・宇宙人といっしょ』をパブー (PC等で読める電子本)で出版しました

最新記事

カテゴリ

三毛猫亭日乗 (116)
社説 (64)
ひみつの閉架書庫 (109)
デムパ話 (128)
超デムパ話 (72)
新世界への回帰 (89)
アセンションについて (5)
次元上昇 (26)
デムパなメソッド (15)
ナチュラルトランス (12)
ナチュラルトランサーの特徴 (1)
フィロソフィア(愛知) (21)
この女(ひと)を見よ (31)
カルタあそび (2)
不思議なお店 (7)
RTLF (1)
未分類 (37)

最新トラックバック

ぞろ目が出るかな?

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文: