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ソロ・パブリッシュ

エア充。

仮想集合システムの話のつづき

2018.8.17(金)

仮想集合システム(客観世界観、多数派世界観)というものを、簡潔に表現すると、
それは「ここにないものをあるとする世界観」である。
ここにないものとは、シンプルに眼前にないもの、「私」が感じていないもの、
すなわち記憶とか知識とか、記憶や知識による解釈とかである。
仮想集合システムは、記憶や知識を、
「かつてあったこと」として実在に繰り込むとともに、
「私」が感じていなくても「裏側や内部や遠くにあること」として実在に繰り込む。
時間という思考、空間という思考が、「私」の感じていないものの実在を支えている。
ないものをあることにできるのは、
大元に「“私”に先んじて(客体からなる)世界がある」という客体思考があるせいだ。
「私」より先に世界があるのだから、「私」が感じていようがいまいが、世界はある、
世界は「私」とは関係なくそれ自身の法則をもつ、と言うことができる。

シンプルになれば、「私」が感じている場面以外は何もない。

むろん、ここで「ある」「ない」といっているのは物理実在のことだから、
物理実在でなく、身体感覚にならない思考として、記憶や知識は存在する。
記憶や知識は「かつてあったこと」でもなければ「裏側や内部や遠くにあること」でもなく、
思考(思い、考え)である。

「記憶」という言葉には「かつてあった」ニュアンスがつきまとうが、
記憶は端的に物理実在ではなく思考であり、
視覚イメージや音や触感、何らかの「感じ」からなる非物理データである。
なので、仮想集合システム内では「一度も経験していない」場面が、
既知感をともなって、「記憶」と呼ぶにふさわしいデータとして想起されることもある。
知識についても、「まったく学んだことがない」方法やツールや見解が、
既知感をともなうデータになることもある。

記憶や知識を、仮想集合システムからリリースし、
空間思考、時間思考からくる物理実在性という幻想に囚われなくなったとき、
幼少時とか数年前とか昨日とか、数年後の予想未来図とか老後とか、
そうした「人生」尺度をはるかに超える
時空間リミットなしのデータがアクティベート(賦活化)される。
それらは、シンプルに「私」が感じている場面に、和音のように重なっている。

時空間リミットがないので、半時間前の記憶よりもリアルに異界や別世の記憶が
前景に出ているときもある。
そういうとき、半時間前の記憶はスッと遠のいて淡くなるか、消えてしまう。

その重なりは、豊かだったり、明晰だったり、深閑としていたり、躍動的だったり、
「私」視点がつくりだしている場面によってさまざまな調性を帯びる。
過去を回想したり、未来に思いを馳せたりしたときの悲喜こもごもな感情の豊かさとは、
私比では、はっきりいって比べものにならない。
しかしながら、その重なりは、芸術的といっていい、と同時にきわめて実用的で、
仮想集合システム内で「日常」と呼ばれる用事、用件とがっつりリンクしている。
実行に移すべきことがあれば閃きランプが点灯するし、
考える隙なくダイレクトに行為へと下りることもある。
宇宙ってほんとにムダがないわ。タメもないわ。グッドジョブwww
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  1. 2018/08/17(金) 16:21:40|
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仮想集合システムの三本柱

2018.8.14(火)

以下の①~③は、仮想集合意識システムの三本柱である。
仮想集合意識システムなどというオカルトめいた名称が嫌なら、
一般的世界観とか客観世界説としてもいいけれども、要は多数派世界観である。

厳密にいうと、その多数の人というのは私の主観世界にある概念である。
私が自身の主観という視点をはずせないにもかかわらず、
自身の主観世界に多数派の見解が存在していて、
そのいわば“脳内不特定多数の人々”が「これが普遍の法則だ」と言っている。
私が、私の身体感覚も含めて主観世界でしかないにもかかわらず、
コントローラーがその外にあると、自分で思い込んでいる。
これは、自分の家に「ここはきみの家じゃない」と云う人を大勢住まわせていて、
「彼らの云うとおりだ」と思っているのと似ている。
つまり、多数派世界観は自分で自分の意識に仕掛けているからくりで、
このからくりは「多数」と多数に共通する「普遍性」に支えられているので、
私はこれを仮想の「集合」意識のシステムと呼んでいるのである。

①客体思考
・世界は根本的には物体で構成されている。
・まず物体があって、自分の主観は物体としての身体から派生したものだ。
・物体は独自の法則で動いているので、物体である身体や、身体に還元される主観も
物体の法則に制約される。
・物体で構成された世界には、自分、大勢の人、動植物、無機物といった数多の物体があり、
どれも物体独自の法則にしたがう。
②空間思考
①の結果、誰にとっても同じ客体世界が存在するので、自分が見たりさわったりしていなくても、
眼前の物理光景から推測できるような物理光景が広がっている。
例)ニュースの映像の向こうにはその出来事が実在する。
  自分が実際に見たりさわったりしていなくても身体内には臓器が実在する。
  観測機器で観測していなくても、原子や細胞などは実在する。
③時間思考
・誰にとっても同じ客体世界は、客体(物体)独自の法則にしたがって変化する。
・したがって客体世界の現状以前には、現状に至るまでの状態(過去の状態)が実在した。
しかし以前の状態に戻ることはできない(不可逆)。
・客体世界が現状に至るまでの推移状況から、まだ現れていない変化(未来)を予測できる。
・客体世界の状態は、過去から現在に至り、未来に向かうにつれ、客体独自の法則にしたがい
不可逆に減衰していく。
例)人は誕生して、成長し、成熟し、老化して、いずれは寿命が尽きて死ぬ。
  実在した過去の状態を経過順に並べた「人生」は実在している。
  生まれる前には過去世が実在し、死んだあとには来世がつづく(「人生」の延長バージョン)。

この3つは、さまざまな思考、感情、気分のベースになるメタ思考で、
なかでも①は②と③の根拠となる大元である。
①の客体思考とは、「私に先んじて世界はある」という考えかたである。
私の誕生前から世界はあり、死後にも世界はつづく、つまり私は誕生によって世界のなかに
投げ込まれ、死によって世界から去る、と考える。
この記事では、その世界の本体(客体)を、多数派見解にしたがって物体としたが、
べつに「意識」でも「精神」でも同じことで、
これは「私以前に客体X(でできた世界)がある」という思考なのである。

「私」は、さまざまな感覚、思いを受けとり、統合的な世界像にまとめている当事者視点、
統覚意識のことで、
私は通常の意識状態でも、変性意識状態でも、眠っているときでも、
仮に別人と入れ替わることがあるとしたら入れ替わっているときでも、
当事者視点で何かを感じていたり、何も感じない状態にある(眠っているときなど)ので、
「私」というこの当事者視点は不動である。
「私」が「みけ」でも「さる」でも「きじ」でも、誰であっても、
当事者視点で感覚や思考などを総合する「私」という形式は1つしかなく、
「私」を通してしか世界像は結べない。
仮に精密な機器で原子とか細胞とかを観測しているとしても、
「私」あっての観測行為であり、観測結果であって、
「私」に先んじて観測対象がある、などということは、ありえない。
私が「私」という当事者視点でしかないということは、非常に単純なことだ。

なのに、「私に先んじて客体Xがあり、私という当事者視点(主観)は客体Xに属する身体の
反応から派生した現象である」という転倒が奇妙だと思われないのは奇妙である。
奇妙だと思ってしまうのは、私が中二病だからであろうか。

「私」に先んじて客体である世界がある、という客体思考は、
「自分の思いどおりにならない状況」にぶつかって証明されるかにみえる。
じつはこう考えるとき、
「私」という当事者視点を何かの思いと同一化するというカテゴリーエラーが起きているが、
「私=思い」として(本当は「私≠思い」)、「私=思い」の想定していない状況が生じた
原因として客体X(世界)を設定すると、
客体Xは「私=思い」と関係なく独自の法則で動いているのだから、
客体Xが自分の思いどおりにならなくても当然であるという説明がつく。
でも実際に起きていることは、
a.状況がこうなってほしいという思いがある。
      ↓ (一般的にいくらかの時間推移があるとされる)
b.何らかの物理事実からなる、または物理事実から推測される状況がある。
c.bの状況がaの思いとちがっているという思い(判断)がある。
d.思いと状況のずれを不快に感じる思い(感情、気分)がある。
ということで、aとbの間の時間推移も含めて、a~dの全部が「私」視点で受けとられている。
状況が思いどおりになろうがなるまいが、「私」という当事者視点の範疇内なのである。

また、「私」「あなた」「誰それ」「猫」「机」といった言語上の区別は、
音声や文字の組み合わせをちがえることで、
音声や文字の組み合わせの意味が及ぶ範囲を限定してそれぞれを区別し、
この区別に先んじて、区別という作業の対象になる客体があると思わせる。
「言うは易し、行うは難し」とか「口では大阪の城も建つ」といったことわざが示すように、
言語は客体思考の原因になるほど強力ではないが、客体思考を補強している。
しかし、「私」「あなた」「誰それ」・・・と区別している、その当事者は「私」なのだ。

「私」視点の外にコントローラーがあるとする仮想集合システムは、
いつ、どこで、どのようにしてできたのか、と問うことはできるが、答はない。
この問い自体が「時間思考(いつ)」「空間思考(どこで)」「客体思考(どのようにして=
誰の、何の所為で)」という仮想集合システムの三本柱に拠っているからである。
宇宙のはじまりとか、およそ起源を求める問いは、
必ず「では、その前は?」という形で無限後退していってしまう。
それは、この起源という発想自体が仮想集合システムの枠内にあって、
システムに沿ってアウトプットされてくるからである。
仮想集合システムが「ない」世界と「ある」世界との変わり目を見るには、
最も感覚的刺激がはっきりしている物理光景(一般的な表現では今ここの物理光景)に、
そことかかわる全データを感じとれる状態、
つまり過去の体験とか過去世とか別世とか何かの歴史的情景、異界の風景などなどが、
現在との重なりとして、和音のように感じとれる意識状態でなければならない。
そのときはじめて、「(垂直に重なるデータの)このあたりからシステム化されている」
とわかる。
それは、重なりの1つ1つを立体光景として思い出すということではなく、
物理光景を含むその全体の響きを感じとることをいう。
ミルフィーユやバウムクーヘンのようなお菓子を、1枚ずつはがしてではなく、
層ごと食べて全体を味わうように。

ただ、これを言葉や絵などで表そうとすると、言葉や絵などは仮想集合システムを前提
とする道具(前述の重なりでいうと、システム化のあとから出てくる道具)だから、
直接には表せず、比喩や物語パタンを借用した喩え話にせざるをえない。
私も電子本『Starry Souls』(ブログ右「出版案内2」)で仮想集合システム成立の経緯を
書いたが、これは私版のアストラル話である。
この種の情報に接するさいには、ソースコード(信号)の「感じ」をとらえることが大事で、
言い換えるとソースコードの「感じ」さえとらえられれば、あとはどうでもよく、
伝記や歴史書やドキュメンタリーと同じベタ事実感覚でとらえていると、
「太古の地表を大天使がのしのし歩いていた」式の次元混同に陥る。

では、自分が仮想集合システムに囚われて、すっかりシステムどおりに作動していながら、
なぜシステムにハマっていると気づけるのかというと、
大元の客体思考にムリがあるからだ。
私がおじさんでも女子高生でも小学生男子でも亡霊でも、私は「私」視点でしかなく、
「私」視点で何ごとかを感じるとともに、感じる対象である世界が現れる、
にもかかわらず、システムは「私」視点の向こうに客体Xがある、
感じるより先に対象があると、思い込ませなければならない。
眼前の光景が「私」視点で感じて構成されたものであることは、
「現にそうだ」ということで証明オワリだが、客体Xは証明できない。
ここに仮想集合意識システムの脆弱性がある。
過去の連なりを、物理光景と同じ濃さ、大きさの立体光景としてとり出せないことや、
遠くの場所、裏側、内部を、「私」視点を変えることなく出現させられないことも
脆弱性である。

システムの仮構性への気づきを促すのは、
地球はまるいと教わり、映像や画像で「地球」といわれるものを見た、けれども、
自分が立っているここはまるくないようだ、
といった類の、多数派的に「ばかげた」「イタい」センスである。
  1. 2018/08/14(火) 17:26:37|
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エネルギーワークについて

2018.6.22(金)

何か気がかりな状況にある人、動植物、建物、土地や森林や海などの環境、等々に対し、
ヒーリングやお祈りといったエネルギーワークをするさいには、
先ず自身の「気がかり」をクリアリングしましょう。
エネルギーワークぅ? は、なんですかそれは? という人は、
運動するとか何度も腹式深呼吸するとかして、心身をマッ白にするのでもよいです。
クリアリング、マッ白。
それだけでも効果があり、それだけでエネルギーワークが完了することも多々あります。

他者の境遇や、集団の安全、調和を気にかけることは、
一般常識では(物と意識との関係が逆転している仮想集合システム下では)
思いやり、善意、場合によっては正義とされています。
思いやりや善意や正義が生じる思考や感情、人として、生物としての「当たり前」の根拠を
問いただすことをしなければ、
ここから先はない、として引き下がるのであれば、それは正当でしょう。

しかし、物やその動きとして現れていないメタフィジカルなコスモスでは、
人として生物として当たり前の反応だとか、人道とか、全然関係ありません。
前にも書いたことがありますが、メタフィジカルなコスモスというのは、
エネルギーが強い、弱い、加速する、減速する、接近する(引き寄せる)、離れる、
帳尻が合う合わない、方向、角度、
といった力学だけで動いています。だってそれしかないから。
なので、思いやりや善意や正義の下に潜んでいる怖れ、混乱、怒り、悲しみ、
「ものごとが衰滅に向かうのは望ましくない」というジャッジメント、
「放っておくとものごとは衰滅に向かう」という、思考の土台となるメタ思考としての時間思考、
そういうのが全部、洗いざらいカウントされて力学換算されます。
そういうのが、表向きの回復や改善を指向するエネルギーと混じって、
総じてものすごくノイジー(騒々しい、支離滅裂)になります。
なので、最初にしたほうがいいことは、
何かしなければ、という気持ちや気分が「ある」のを観察して、終わらせ、通過させることです。

「かつて、神官や僧侶といったエネルギーワークのエキスパート集団が存在していた」
という知識データがあったり、
人によってはそれが知識に留まらない生々しい記憶データとして起動する(過去世や異界で
そういう人生を経験したのではなく、自身のこの物理像‐マインドとリンクしてアクティベート
される)というのも、
俗世的マインド反応から離れた立ち位置から行われるのでないと、
メタフィジカルなコスモスの調整は実効力が弱まる、ということを意味しています。

メディアのニュース、速報などを見聞きしたり、人の話から誰かの近況を聞いて、
ざわざわと気持ちが揺れ動く。不安な気分になる。
それはニュースや話の「向こう側」で本当の出来事が起きているからではありません。
ここで起きていることは、声や身ぶりや表情や文字といった情報に接した、それだけです。
その情報が、ざわざわや不安を喚起している。
それらが喚起されるのは、「向こう側」で出来事が起きているという空間思考のせいばかりでなく、
おそらく、個人的な経験記憶や、記憶をつないだ物語も活性化しているためでしょう。
反射的に想像される「向こう側」の出来事以上のことが、マインドで起きています。
ヒーリングしたほうがいいのは、まずここです。

加えて何らかのエネルギーワークとか、直接の連絡、支援などダイレクトなアクションを
促されているかどうかは、クリアになればはっきりするでしょう。
  1. 2018/06/22(金) 14:04:35|
  2. フィロソフィア(愛知)
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人類とは誰のことか

2018.6.11(月)

<人類>というのは個人の思考である。
ある人が人類のことを考えているとき、その人の考える人類が、思考として存在している。
だって、<人類>に会って、つぶさに見て話を聞いて、頭数を数えた人なんて、
どこにもいないっしょ。
と、こういうのを中学生の理屈という。でもほんとのことでしょ。
同じ中学生の理屈でいくと、この「ある人」ってのは、私が認識している世界に属していて、
「どこ」ってのも私が認識している不特定の場所のことである。

私がメディアのニュースで、ある情報を知ったとして、
その情報は、私が認識する世界では、画像や音声や文字がつくる情報として存在する。
ニュースの向こう側で、本当にその事件が起きているわけではない。
本当の事件というのは、私が認識する世界に、事件として現れる。
画像や音声や文字がつくる情報に対して、何らかのアクションをすることもあるが、
それは情報の向こう側で本当に何かの出来事が起きているからではなくて、
画像や音声や文字がつくる情報に対して特定のアクションをするようにと、
私が認識している世界の側から促してくるからだ。
感情や気分が反応してざわざわすることもあるが、私の場合、
ざわざわからアクションすることはなくなった。

以上のように、私にとっては<人類>は概念(思考)なのだけども、
私の認識する世界には、どうもガチで人類がいることになっているっぽい人も住んでいる。
私が認識する世界には、「人類」という言葉に対し、
次の3つのとらえかたをする人が住んでいるようである。

①<人類>は実際にいるという前提で世界像を構築している人。
②<人類>が概念(思考)だと気づいている人。
この人は、<人類>という概念を、自身の認識世界にある思考のひとつとして扱っている。
たとえば、「人類」という言葉に接したとき、「あ、<人類>を想定した話ね」ととらえる。
③マインドを超えたところから感知される何らかの集合フレームに対して、
思考帯域で「人類」という訳語を当てている人。

③は何かというと、
夢やビジョンとして現れるケースもあるけども、基本的には信号でしかとらえられない、
言葉やイメージで直訳できない世界(アストラル帯域)に、
同胞ソウルとでも呼べばいいのか、大きなグループソウル的な連帯フレームが
あって、このフレームを「人類」と呼んでいるんである。

つい二、三日前、私は、私用語で「前期レムリア」と呼んでいる、
人が言語を介さず、ナマの信号のやりとりで交流している世界をチラ見した。
コンピュータでいうと、機械語ですらない、電気パルスで交信しているような感じ。
しかしこれとて、個体宇宙で起きている自作自演交流である。

たとえばAさんが認識する世界、つまりAさんの宇宙に、B、C、Dなどの人たちが
住んでいるとすると、この人たちは、
Aさんの“私”意識(エゴ)が自他分離して観察している局面では、それぞれ別人だが、
AさんのエゴがZero Point Fieldとつながって自他の区別を解消している局面では、
Aさんでもなければ、BでもCでもDでもなく、何者でもない。唯のZPFです。
にもかかわらず、これがAさんの個体宇宙になるのは、
自他分離しているときの統覚意識(観察者“私”)がAさんだから。
ハイアーセルフ‐高次帯域‐マインド帯域‐物理像(エーテル帯域に反映された物質波)、
上から下まで、どこをとっても、観察者=Aはぶれていない。
0/1帯域で生じた“私”意識は、数多の視角に分かれ、それぞれの視角から、
個々の宇宙を観察/創造している。
この個体宇宙の頂点(それぞれの視角の始点)がハイアーセルフです。
そういうAさんの宇宙で、AさんはB、C、Dなどの人たちとパルス交流している。
リニア時間を想定したうえで「現代」と呼ばれている世界でも、高次帯域はパルス交信ですが、
「前期レムリア」世界の特徴は、この交信方式がマインド帯域でも変わらず、
言語のような象徴体系がないことです。
これがいくらか言語に近づき、機械語交信になったのが、私用語で「後期レムリア」または「ムー」、
アセンブリーになったのが「アトランティス」です。

レムリアとかアトランティスとかっていうのは、
「現代」とは異なる特徴をもった世界の呼び名であって、
そういう文明が実在した、いや実在していなかった、という話ではありません。
そういう世界は「現代」と重なって、個体宇宙のどこかの周波数帯を成しています。
こういう世界が「過去世記憶」として、また「現代」との重なりが「転生記憶」として
思い出される場合、リニア時間形式を使ってファイルを開いているだけで、
それは異なる世界へのアプローチのしかたのひとつです。
もし「多くの転生を重ねた」という実感があるとすれば、
多くの別世界に通じている、アカウントをもっているということです。
アプローチのしかたはそれだけではなくて、要は周波数が合うとファイルが開くので、
瞑想してるときとか、何かの拍子にふっとつながることもある。

さて、高次帯域では、自他分離局面での他者との交流はパルス交信方式ですから、
上述の②の人でも、観察を重ねて、“私”(エゴ)が研ぎ澄まされてくると、
パルス方式は実感されてきます。
③の人とのちがいは、③の人の場合、
やりとりの頻度が高い対象範囲(同胞的フレーム)と、「人類」という概念とがリンクしていること。
②の人には、そのようなリンクがありません。
この「人類」概念は、言語による思考というよりイメージです。
同胞的フレームと「人類」のイメージがリンクしている理由は、
アカウントをもっている別世界とのかかわりにあるようです。
レムリアとか、古代とか、どこかの時代のどこかの地域のクラン(氏族)といった形で、
あるいはどこかよその星のなんとか族といった形であっても、
別世界がマインド帯域で翻訳変換されて開くとき、
翻訳ツールとして使われるイメージに、同じマインド帯域の「人類」イメージと親近性がある。
たとえば直立二足歩行といった外見の特徴とか、ジェンダーとして翻訳される二極性があるとか、
似たような感情反応をするとか。
つまり、③の人たちの「人類」イメージは、さまざまな別世界の同胞的フレームの別称です。

しかし、「現代」世界で、思考と対応した言語で示される「人類」は、
非常に多様な人間坩堝をひとつにくくる概念であり、
上述のような同胞的なフレームと対応させるにはムリがあります。
意識の広がり度合もばらっばらで、パルス交流にはほど遠く、
ひとつの象徴記号(言葉など)が、いくつもの意味、何十ものニュアンスを帯びて拡散します。
言葉で「いいよ」と言いつつ、パルスで「だめ」と伝えていることも珍しくありません。
少なくとも、私が認識している世界ではそう。
同胞的フレームを翻訳した「人類」と、<人類>の実態は大きくかけ離れています。

では、③の人が自身の宇宙で感じている同胞的フレームがアクティベートされると、
マインド帯域‐物理像でどんなふうに具体化するかというと、
・それぞれの“私”が認識する世界での交流がパルス的になる
(Aさんの場合だと、Bさん、Cさん、Dさんなどとのやりとりがパルス交流に近づく)
・個体宇宙の高次帯域とのやりとりがスムーズに、自在になる
といったように、それが及ぶ範囲は、それぞれの“私”が認識する世界です。
ざっくりいえば、リアル、バーチャル問わず「隣人」範囲に波及するといっていいでしょう。

私が認識している世界すなわち私の個体宇宙には、
意識の広がり度合もさまざまなら、アプローチのしかたもちがう人たちが住んでいます。
で、私の個体宇宙から私に求められているのは、
これらの人たちに連帯を呼びかけたり、
想像力を広げて共感する努力をすることではなく、
このばらばらさ加減をばらばらなまま承認し、それぞれのやりかたを尊重することです。
物質還元主義に立つ人も、私とはちがうメタフィジクスを展開している人も、
まちがってません。
「関係ない」という関係が築けることは、共存の鍵です。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』には、修道僧のゾシマ長老に、
「私は人類のために奉仕したい気持ちでいっぱいだけど、
人類愛に燃えれば燃えるほど、身近な人たちが嫌いになる」と訴える女性が出てきます。
この人にとっての本当の「人類」は、嫌いになっていく身近な人たちで、
何かあるごとにこいつ嫌いとか許せないと感じるのを認めることと、
そう感じることで自分を責めないことが、愛の実践のはじまりではなかろうかと思った。
  1. 2018/06/11(月) 16:58:38|
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空間のひみつ

2018.5.11(金)

空中から物体を出したり、歩いたり電車に乗ったりせずに目的地に着いたり、
ボールに切れ目を入れずに裏返せたりする人がいるらしい。
らしい、というのは、どれも、いわゆる精神世界系の本で読んだエピソードで、
自分の目でシカと見たわけではないからだ。
ありえないとか、インチキをしているはずだ、とは思えない。
物理事実でも人心の変化でも、起きるかどうかは確率の問題で、
一般的には非常に起きる確率の低い出来事が高い確率で起きることもあるんだろうな、
と思う。

上述のようなことができる人は、自覚があってもなくても、
空間の感じかたを「標準モード(地球人の仮想集合システムに則った感じかた)」から
「自在モード」に切り換えることができるのだろう。
たとえば空中からバッグをとり出せるのは、そこにバッグがある、という視覚的、触覚的な
感じがあるからである。そういうリアリティの物理像になっている。
こんなのは、「出せるから出せるんだ」と言ってるのと同じだけど。

時間は、場の順序と開きかた(テンポ、速度)についての仮定であり、
空間は、位置と広がりかたについての「こうだとすると~」という仮定である。
エーテル波が物質波を反映させて質感をつくる物理場に映しだされる物理像では、
空間の仮定条件は「エーテル設計図が物質波でできていたらどうなるか
=物質でできているとするとどう感じられるか」で、
この条件を入力して出力される結果は面的、あるいは膜的である。立体じゃなく。
在地球人間型意識体は、この面的物理像を、マインド帯域の思考領域で「立体」に変換する。
小さく見えるものがだんだん大きく見えれば近づいているとか、
大きな音がだんだん小さくなったら遠ざかっているとか、
同じ触覚がしばらくつづいて突然途切れたら、つづいた分の奥行きをもつとか、
感覚の差を距離や高さ、奥行きに変換して、思考で立体だと理解している。
実際には、ある形や色が見える、ある音が聴こえる、ある感触を感じる、
といった体性感覚の総合図しかない。
立体という概念に慣れていると、この総合図を「面」とするには抵抗があるが、
複数の感覚が配置された「面」としたほうが、立体よりも実態に近い。

時間についても同様のことが言える。
物理像というのはそこで完了している、時間の尺に当てはめれば直近過去であり、
これを含めた時間の流れ(プロセス)は思考でしか組めない。
物理像で自他分離した“私”は、完了した感覚総合図しか認識しておらず、
そこにはプロセス(時間)も立体(空間)もない。

しかし、思考でプロセスや立体を立ち上げるとしても、
それ自体は別に意識の広がり(アセンション)を制約しない。
制約するとは、時間思考や空間思考が「こうでしかない」というふうに硬直していて、
「これもありだけど、これ以外のとらえかたもある」という柔軟性がなく、
自在に使えなくなっていることを意味する。
時間についての制約は、「誕生→成長→成熟→老化→消滅」といった生滅盛衰方向
(エントロピー)を「こうでしかない」と一義的に決め込んでいることだった。
これを支えているのが過去の場面がずんずん累積していくというフィボナッチ思考である
(1、2、3、5、8、13・・・と、1つ前の数字が足されていくフィボナッチ数列のような思考)。
では空間についての制約はどんなものか。
それは、「(物体には)内部がある」という思い込み(合意現実)が強力だということだ。

内部がある、というのは、思考で立体を想定したときの、見かたの1つにすぎない。
プロセスが生滅盛衰の方向に限られないように、
立体を想定したからといって、内部が必然というわけではない。
というか、物理像の実態に即すと、むしろ内部なんてないんだよ。
感覚の総合図は面的で、面には内部なんてないんだから。

内部がないとはどういうことか。
たとえば箱を開けたらケーキが出てきたという時空連続プロセスの場合、
「箱がある」「箱のフタを開く」「開いたボール紙のうえにケーキがある」
というのは、それぞれ別の場面、別の物理像だということです。
この伝でいくと、身体(像)の内部、筋肉とか内臓とかの器官も、
たとえば手術をするとか、内部そのものではないにしてもX線やCTの画像として見るとか、
そういう場面にならないと出現しないということになる。
鏡を見て口を開いたときに出現するのは、
歯や舌や口蓋、その奥(奥という言いかたは立体を設定している)の黒い穴であって、
穴の向こうの気道だとか食道だとかは現れていない。
建物や機械の修理とか、内部を想定してアプローチしたほうが実用的なこともあるが、
物理像の空間構成方法がそれしかないわけではない。

ソファイア@シリウスというentityの指摘によって、私が上記のことに気づいたのは3月半ば、
それからこうして文字にするのに1か月半くらいかかっているのは、
信じられないとか半信半疑だからというんではなくて、
逆にわりとあっさり納得できてしまったんだけど、
これを書いたり口外したりしたら、すっげえ変なやつになるな、中二病極まれり、
というビビリが私の思考領域にあったからです。

でも、だったらしゃっくりを「内部」思考なしで止めてみようと思って、
空中にテキトーに「しゃっくりを起こしている点」と、別の点(これは「しゃっくりを起こしている
点」以外の点=しゃっくりを起こしていない点で、どこでもよい。これもテキトー)の2点を
指さしするようにして設定し、両方の指先に感じる感覚を感じつづけるというヒーリングを
してみたら、数秒で止まりました。
↑これは『瞬間ヒーリングの秘密』(フランク・キンズロー著/ナチュラルスピリット)という本で
紹介されている「クォンタム・エントレインメント(QE)」を応用したやりかたです。

以下はさらにオカルト寄りの情報。
内部構造という形で現れる物理像は、エーテル帯域上に、
さまざまな周波数をもつ波動の組み合わせ=信号として設計されていて、
ソースコードでは、いろんな信号で構成された膜みたいになっているようです。
内部ではなく、面状に広がる図面に近い。
その全部が物理像化するわけじゃなく、隠しコードもたくさんある。
私はエーテル体が見える人ではないんだけど、
見える人には、地球人の仮想集合システム仕様に合わせて、
身体外部に沿ったスケルトン構造として見える場合もあるみたいです。
  1. 2018/05/11(金) 18:19:52|
  2. フィロソフィア(愛知)
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みけ@猫科ホールディングス

Author:みけ@猫科ホールディングス
イタリアの美少年のような女(豹専務)
と同居してるGID
(ジェンダー・アイデンティティ・ディスオーダー)。
人間(♀)仕様だが
中身は外来種(宇宙人)らしい。
血液型:みけ&豹専務とも超B型。
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