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ソロ・パブリッシュ

ドリーム。

自力と他力の統合

2019.7.16(火)

以下、私のガイドスピリッツのひとり、ソフィア@シリウスとのチャネリング対話です。

みけ 何かをするには、客体‐空間‐時間思考にもとづくハコ世界(3次元)のやりかたで、
自分で計画を立てて動くにせよ、潜在意識に働きかけたり引き寄せの法則とかを使うにせよ、
まず、何をするのかはっきりさせないといけないよね。つまり意図するということ。
ソフィア そうね。
みけ ハコ世界(3次元)にいると、その意図が明晰でないような気がしたんだけど。
ソフィア 明晰でない、とは?
みけ 意図すると同時に、すでに夾雑物、雑念が混じってる、みたいな。
それで、意図した内容が重たく感じられるんです。
この、意図した内容が重たい、ということがあるために、
何かをするときに先にこの重たさを予期してしまって、何かする前から疲れちゃうんですよ。
なので、私はスピ用語としての「意図」「意図する」って言葉が嫌いだったのね。
だからといって「天に、宇宙におまかせ」ってのはもっと嫌いなんだけど。
この方式自体は好きでも嫌いでもないけど、そういう言説の裏にしばしばまとわりついてる、
利己心や欲望を浄化していこうとする方向性が嫌いなの。
利己心や欲望って、C級グルメ嗜好だったのが本物の味を求めるようになるみたいに、
周波数が上がると変容していくから、周波数を上げていけばいいんで、
C級グルメの段階で断とうとするとこじれるだけだと思う。
まして他人のC級グルメのことでああだこうだ言うのは大きなお世話。
他人が興味もってることに興味がなければ、視野に入ってきたって通り過ぎればいいじゃないですか。
ソフィア あなたもね。利己心や欲望を浄化していこうとする方向性をもった言説が嫌いなら、
目に留まっても通り過ぎればいい。
みけ あ、そっか。そうだね。そうしよう。
ソフィア それはさておき、意図した内容が重たく感じられるのはなぜか、追究してみようか。
あなたが言ってるのは、客体‐空間‐時間思考にもとづくハコ世界(3次元)で、あれをしよう、
これをしようと意図することだよね?
みけ そうです。
ソフィア 客体‐空間‐時間思考の大前提は?
みけ 客体思考です。「私」の認識より先に何らかの客体が存在しているということ。
物体、あるいは形而上的な光とか、精神とか。
そして、統覚視点の「私」もその客体でできていて、身体とか心とか魂とかの体積をもっている。
ソフィア とすると、3次元(ハコ世界)で何かをする、ということは、
「私」が身体なり心なりを動かして客体に働きかけることを意味する。
みけ ですね。
ソフィア しかし客体はそれ固有の法則をもつから、
「私」は、これからしようとしていることがその法則に適うかどうか、
つまり、できるかできないか、あるいは、できそうかそうでないかを判断しなければならない。
みけ それだけでマインドのパフォーマンスが大きくなって、すごく負荷がかかる気がする。
このくらい時間をかければできそうとか、段階を踏めばできそうとか、
費用をいくらかければできそうとか、細かいことまで詰めたらもっと複雑になる。
ソフィア 3次元(ハコ)にリアリティがある状態というのは、
客体‐空間‐時間思考がひとつのシステムとしてデフォルト(暗黙指定、あらかじめの前提)で
稼動しているということだから、
本人に自覚がなくても、意図するということにすでに可不可の判断が含まれているんですよ。
「意図する」というマインドの動きに、「できるか、できないか」の判断作業がプリセットされている。
みけ 客体‐空間‐時間思考というオペレーティングシステムが稼動するぶん、重たく感じるわけか。
ソフィア 3次元にリアリティがあると、端的に意図するということができません。
客体固有の法則に適っているかどうか、という判断を必ず伴っている。
あなたは、この判断のパフォーマンスを明晰さを妨げる雑念とか夾雑物として感じている。
みけ 可不可の判断がプリセットされてるってことは、あらかじめ意図が制限されるってことでも
ありますね。客体固有の法則に適わないこと、つまりハコ世界(3次元)で実現できないことは、
空想することはできても意図にはならない。
本人的には制限していないつもりでも、システムに制限されている。
*なお、五感的な濃い感覚についても、ハコ世界(3次元)では生の五感的濃い感覚として現れてはこず、
感じた刹那から客体‐空間‐時間思考によってアウトプットされた意味が織り込まれている。
しかしハコ(3次元)にリアリティがあると、物理感覚に解釈が織り込まれていることに気がつかず、
この(生の五感的濃い感覚ではない)解釈込みの物理感覚を「現実」と思い込む。


みけ では、客体‐空間‐時間思考から脱してハコ(3次元)にリアリティがなくなり、 
生の五感的な濃い感覚を(マインドと濃い感覚との境界面で)まとめた、
ハコを基準にするとフラットな(平面的な)物理像が出現するとどうなるか。
これが、ハコ世界(3次元)でイメージしていた「明晰」「くっきり」とはちがうんだよね。
ハコ世界(3次元)でいう「意図する」でもなければ「宇宙にまかせる」でもなく、
「意図する」でもあり「宇宙にまかせる」でもある、というように、統合されてる感じ。
もやっとした霧のなかに、一本の道があって、
その道はあらかじめ決まっていた道でもあると同時に、自分で選んだ道でもあるというような。
ソフィア その霧は確率が不確定ということを象徴している。
みけ そうです。その霧のなかに、一本の決まった道であり選んだ道がある、
そこにピントが合っている、これだとわかる、そういうのが平面世界(4次元)の明晰さです。
「(自分が)向かう」と「(何かを)迎え入れる」が同時に起きている感じ。
ソフィア 「意図する」も「宇宙にまかせる」も客体‐空間‐時間思考を前提とした表現だからね。
「意図する」は、身体や心といった体積のある「私」が環境(客体)の変化や環境への働きかけを
中程度の感覚(マインド)で描くことだし、
「宇宙にまかせる」は、宇宙を「非私」つまり環境(客体)と設定して、環境の変化に合わせること。
「まかせる」方式では、環境(客体)に設定しているのは形而上的な光とか霊とか神とかで、
物体はそれらが形になったもの、ととらえるわけですが。
前者は自力、後者は他力で、
どちらも「私」が認識する前から、あるいは「私」が認識しようとしまいと関係なく、
客体が存在することを前提としています。
しかし客体‐空間‐時間思考に制限されなければ、
「私」がすでにそこにある対象を認識することは、その対象を創りだすことでもあるわけだから、
認識(他力)だけでもなければ創造(自力)だけでもない。
認識即創造は、他力の作用であるとともに自力の作用である。
みけ 何かが動く、変化するということは、統覚視点「私」の針路が変わるということでもあるし、
微妙(高次)-中程度(マインド)-濃い感覚(物理像)がつくる場面が量子跳躍するということでも
ある(量子跳躍とは、場面から場面へと一気にデジタルに飛ぶこと)。
前者は特定の視点から万華鏡を覗いているみたいなイメージだし、
後者は四方八方、縦横無尽にヒュンヒュン飛んでる感じ。
その両方なんです。 
自分がどこかに移動すると見るか、景色のほうがどんどん変わっていくと見るかのちがいだけで、
じつはどっちも同じ。
ただ、この「感じ」を言葉で表現するのはすごくむずかしい。
私は、客体‐空間‐時間思考システムからはずれて統覚視点だけの「私」に戻ると、
行動しようと決心しなくても自然に行動が起きる、と書いていますが、
自然に行動が起きるって、自分の意思がゼロになることじゃないんですよ。
っていうことがわかったの。
ソフィア 具体的には?
みけ 今年の7月14日(日)、午前中、私は掃除するとか顔を洗うとかの用事をしつつ、
仏教の声明とグレゴリオ聖歌のコラボのCDをかけていて、
それからお香を焚いたり、瞑想したりしていたんですが、
実感的には身体が勝手に動いてる感じだったの。
コラボCDは豹専務の所持品で、私はいっぺんも聴いたことがなくて、
なんでこのCDをかけるのかよくわかんないし、
ふだんはお香なんて焚かないから、なんで焚くのかもよくわかんないし、
ハコ(3次元)時代のマインドを通してみたら、たぶん、イカレてるぜ、って動きをしてたと思う。
でもね、自分の意思もちゃんと働いてたんです。
CDを選んだり、これをやって、あれをやって、と、意図して動いている、
それと同時に身体を含めた環境が勝手に動いていく。
たとえば、お店にいて、「それ、ください」と言ったと同時に店の人が商品を差し出してるみたいな、
この絶妙な案配は正確には言い表せない。
自分の意思だけでも宇宙の意思だけでもなく、その半々でもない、
両方ぴたっと一致してて、どっちも100%って感じ。
ソフィア そのときの意図が明晰だった?
みけ そう。超明晰。これこれ、「意図する」ってこういうことだよ、って確認する一方、
ハコ(3次元)時代の意図ってこういうんじゃなくてもっと重たかったよなぁ、と回想し、
この記事の冒頭の話になるわけです。
でも、そのときの状態をハコ的に表現すると、「明晰」「クリア」「シャキッとしてた」じゃなくて、
むしろ「ぼんやりしてた」になると思うんだよね。
このぼんやりさ加減は、夢うつつとかシータ波がどうとかってそういうのじゃなく、
なんていうのかな、重力が減った世界で、ちょっと意図しただけで身体が大きく動く、みたいな。
そのちょっとの意図がすごく正確なんです。的を射ている。
ソフィア 魔法の時間はそこで終わりですか?
みけ いえ、そのあと、この感じがおもしろかったので、ブログの記事にしようと思ったのが、
パソコンの電源入れないうちに電光石火で気が変わって、図書館に行ったの。
そのときの周波数が変わる変わり目も実感できて、おもしろかった。
見えたり聴こえたりする五感的な感覚じゃなくて、五感的ではない中程度の感覚(マインド)で、
ほんとにひとつの場面がサッと撤収していって、別の場面に変わったの。波が変わった。
テレビのチャンネルを変えたみたいに。
ソフィア 物体であれ、形而上的な光であれ、
「私」の認識の有無にかかわりなく存在する客体を設定すると、
宇宙の力学が「“私”の意思(自力)」と「客体の原理・法則(他力)」に分離するんですよ。
そして、

①「私」の意思を発揮して(意図して)行動に至る。
意図しただけでは状況は動かず、行動すると決心して、実際に行動しなければならない。
行動するとは客体(環境)に働きかけることで、
客体の原理・法則が不可知である(経験知や学問的知識などによって予測はできるが、
偶然にも左右される)ために、行動するには思い切った決断を要する。
「思ったとおりになるかどうかわからない」という不確定さを意図の段階で見込んで、
意図がなかなか固まらないこともある。
②客体の原理(この場合、形而上的な光や神など)に委ね、ときに客体からの啓示にしたがう。
①と同様に、客体の原理・法則が不可知であるため、
客体からの啓示(サイン)を見逃したり誤読するかもしれないという危惧が常につきまとう。
啓示であるか否かをめぐって葛藤や迷いが生じたり、ときに他人と論争になったりすることもある。

というように、どちらも客体(環境)に振り回され、客体に制限される。
さらに、客体が何であるにせよ、客体は「私」の認識の有無にかかわりなく存在し、
「私」も客体からできている身体、心、魂、等々なのだから、
①②のどちらに与(くみ)しても、
「私」の体積(身体、心、魂など)の内部すら、不可知の客体に制限されて自由にはならない。

そして①と②は180度正反対のアプローチだから、相容れない。
これは宇宙の力学が「“私”の意思(自力)」と「客体の原理・法則(他力)」に分離していることから
現れる必然的な両極性で、
自力と他力を統合するには、両者の前提である客体という設定をはずす必要があります。
統合されたステージ、「統覚視点“私”の認識即創造が宇宙である」へ回帰した世界は、
自力または他力の思考から推測したり、演繹したりすることはできない。
みけ 「キュウリにはちみつをかけるとメロンの味」(出典『ちびまる子ちゃん』)って
ムリがあるんだよね。
私は「宇宙のサインをとらえる」とか「自然に行動が起きる」という書きかたをしているけど、
どっちもやや他力的で、ジャストフィットじゃありません。
客体‐空間‐時間思考にもとづくハコ世界(3次元)の一般常識が自力志向だから、
引き算してそういう表現をせざるをえないんだけど、
物理像が平面的に感じられる、というのと同じように、本来は直覚、直接感覚的なことだから、
体験して納得するしかないんです。

ハコ世界(3次元)をリアルに感じる状態が「遅れている」とか「ダサい」とかいうわけでは
もちろんない。
この記事に限らず、私のブログのこの種の記事は、
私の「私」視点で感じたメタフィジクスだったり、ケース報告だったりする。
それだけのことである。
ご覧になる方にとり何らかの参考になればさいわいであるが、
益がないとかつまらん等と感じられるのであれば、
クリックないしタップして速やかに他の有益なコンテンツに移られることをお奨めします。
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  1. 2019/07/16(火) 22:23:03|
  2. 平面世界(4次元)
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リアリティの変化と次元上昇③

2019.7.10(水)

自分、自分の手元、足元、周りの世界をハコ(3次元)としてとらえていたのが、
さまざまな様相で行き交う五感的濃い感覚を配置した平面的な物理像になる。
この物理像は、五感的な濃い感覚と、中程度の感覚(マインド)の境界面で結ばれるので、
エーテル像といってもよく、
スピ用語でエーテルと呼ばれる中濃感覚的な感覚帯域(周波数帯域)を4次元とすれば
(この4次元は物理学の定義とは異なる)、4次元像といってもいい。
世界の生々しさ、手触り、リアリティが、
「考えるまでもなく立体(ハコ)だ」から「なんだか平面的だ」にシフトするのは、
ハコを演出していた客体‐空間‐時間思考がはずれて、
一律な空間の広がり、あるいは内部とか、一律な時間の進行によって、
「壁の向こうでは(あるいは箱の中身は)こうなっている」
「5分後にはこうなっている」
と予測される想定リアルが、五感的な濃い感覚ではなく、中程度の感覚(マインド)で想定した
ものだということが明確になるからである。
五感的な濃い感覚と中程度の感覚(マインド)のちがい、
中程度の感覚は五感的ではない、という当たり前のことが明確になる。

ハコ(3次元)にリアリティがあると、この当たり前のことが当たり前でなく、
物理的な景色を見て、聞いて、それに触れたりしたときに、
最初から「そこにはない想定」が被さってしまっている。
ナマの五感的な濃い感覚と、それらを全体図にした物理像は、
むしろ想定リアルに圧(お)されて埋もれてしまっているのだ。
しだがって、ハコ(3次元)にリアリティがある状態で、「いま、ここ」とか「あるがまま」とかを
感じようとしても、
何かを認識したとたんに客体ができ、空間ができ、時間ができて、ハコ化しているので、
すでに何らかの想定が含まれていて、想定優位になっており、
「いま、ここ」も「あるがまま」も出現しないのである。

一方、ナマナマしい五感的濃い感覚と、その全体図である物理像が露呈しても、
中程度の感覚(マインド)でできたハコ(3次元)が理解できなくなるわけではない。
ハコは客体‐空間‐時間思考を使った想定だということがはっきりするだけである。
五感的でない、想定されたハコと、五感的濃い感覚ならびに物理像は明確に区別される。
だから、4次元(平面)にシフトした存在には3次元(ハコ)のからくりや様相はわかるが、
3次元(ハコ)にいたら4次元(平面)のリアリティはわからない。

たとえば、物理像が平面的になると、
歩くにしても、電車などの乗り物に乗るとしても、
身体を動かしてどこかに移動するという感じではなくなり、
気がつくと何らかの場面がある、場面ごと総取り替えしている、というふうになる。
しかし、家から出て、駅まで歩いて、改札を抜け、電車に乗った、というような、
移動のフローチャートが組み立てられなくなってしまうわけではない。
フローチャートが中程度の感覚(マインド)で組み立てられたものであることははっきりしていて、
必要なら「埼京線で来ました。何分くらいかかりました」というように人に説明することもできる。
でも、生々しいリアリティは「場面ごと総取り替え」のほうにある。
現れている場面は、五感的な濃い感覚と、その全体図である物理像で、
「駅まで歩いて電車に乗り~」というのは中程度の感覚(この場合は思考)、
両者ははっきり区別されており、
両者は本来、無関係で、
中程度の感覚(思考)でタグ(tag)づけみたいな関連づけをしているだけである。

一方、ハコ(3次元)にリアリティがあると、
ある場面は、あらかじめ客体‐空間‐時間思考に呑まれていて、
客体‐空間‐時間思考で解釈されたバージョンでしかアウトプットされないので、
五感的な濃い感覚と、その全体図である物理像という赤裸々な姿では出現してこない。
だから、ハコ(3次元)にリアリティがある状態で「場面ごと総取り替え」を理解しようとすると、
量子論とかなんとか、込み入った説明が必要になり、
理論上それが納得できたとしても、
「それは物理学の対象になるようなミクロの世界の話で、生活には関係ない(生活は3次元
=ハコ世界で生起し、つづいていく)」となるのがオチだろう。

要するに、平面にいてハコを理解することはできるが、ハコにいて平面を理解することはできない。
ついでに書いておくと、歴史や未来予測はハコにリアリティがある状態で綴られているので、
いずれも客体‐空間‐時間思考にもとづく中程度の感覚(マインド)の出来事を述べたものである。
古今東西という時空間思考で配置された賢人、哲人の足跡や伝説もハコ化(3次元化)されており、
身体と心という体積をもったこれこれの人物がいた、という「ノンフィクション小説」になっている。
これも、歴史も未来もない平面世界にリアリティがある状態で読み聞きすると、
客体‐空間‐時間思考システムでアウトプットされた思考史としておもしろいですが。

平面世界がリアルである、というこの状態への移行は、
まったく受けつけなかった食品が、徐々に慣れていったわけでもないのに、あるときから食べられる
ようになった、というのと似た直接感覚的な変化で、
どうすればそうなるのかはわからない。
私にも経験があるが、
瞑想とかいろんなスピリチュアル的なワークをしていて、
瞑想やワークの時間が終わった直後は何かが変わったと実感するのだけども、
しばらくたつと、いつのまにか(!)3次元のハコに戻っている、
そういうことがあるのだとすれば、
それはいまだ3次元のハコに生々しさがあるからである。
このシリーズの記事①にも書いたが、
ハコ(3次元) < 平面(4次元)
というように、ある臨界点を超えると、直接感覚が変化している。
ただ、瞑想やスピリチュアル的なワークをしていると、
だんだんハコ(3次元)の推移への関心が薄れるというか、飽和してくるので、
そのへんでひょいと臨界点を超えているのかもしれない。
↑この飽和というのは、半径数メートル以内にない人づて情報とかメディア情報、
スピリチュアル情報、人文・社会・自然サイエンスの知識等々がどうでもよくなるということで、
半径数メートル以内のことには、むしろ関心が注がれるようになり、気がつくようになる。

次元上昇とは、何か神秘的な感覚に目覚めることではなくて、
むしろちっとも神秘的でない、最もわかりやすい感覚がダイレクトに露呈することである。

それによって、神秘的な感覚も神秘なしに微妙な感覚として、
あるいは微妙な感覚に連動した中程度の感覚(マインド)として、感じられるようになる。

U霊とかUFOとかは、いるか、いないか、という(「私」に先んじる客体としての)存在の問題では
なくて、何らかの感覚で感じられるか、感じられないか、という認識の問題だ。
感覚が結ぶ像は、感じられる(認識できる)のであれば、像として存在する。
そして物というのも像であり、夢見手(私)が見ている夢である。
  1. 2019/07/10(水) 19:22:26|
  2. 平面世界(4次元)
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リアリティの変化と次元上昇②

2019.7.4(木)

自分、自分の足元、手元、周りの世界の生々しさ、臨場感、リアリティが、
ハコ(立体:3次元)ではなく平面世界っぽくなる話のつづきです。

ハコ(3次元)はマインドで客体‐空間‐時間思考を使ってるときのバーチャルリアリティ。
これはナマな五感的濃い感覚じゃなく、
客体‐空間‐時間思考で五感的濃い感覚のシッポだけを先取り解釈してマインドで組み上げており、
だからそのシッポも歪んじゃってて全然ナマじゃなくなってるんだけど、
マインドに張られている客体‐空間‐時間思考の動作に気がついていないと、
ハコ(3次元)にすごいリアリティがあるわけです。
ナマの五感的濃い感覚は、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、痛み、圧力、その他、
さまざまな感覚がそれぞれバラバラに行き交ってるだけです。
緑色、どこかに触れている感覚、音声、そういうのが起きたり、起きなかったり(消えたり)
しているだけ。
これが五感的濃い感覚と中程度の感覚(マインド)の境界面に統一的な世界像を結んでいる。
その像が物理像であり、エーテル像とも4次元の像とも呼べる。
この物理像は、厚みや内部、つづきの空間がないという点で、どちらかというと平面的です。
なぜ厚みや内部、つづきがないのかというと、実際に感覚されていないから。
ハコ世界(3次元)だと、開けていない箱には中身があり、もしくはカラッポで、
この部屋の隣りには隣室があることになっている。
箱の中身、カラッポ、隣室は感覚されておらず想定ですが、その想定を前提にして、
開けてない箱やこの部屋を想定空間に位置づけるという約束になっています。
(先に想定空間に位置づけたうえで開けてない箱やこの部屋を感覚するというのが、
上述の先取り解釈です。これは、仕入れた知識にもとづいて小説や映画に接する、
ということを無自覚に行っているのと似ています。)
しかし五感的濃い感覚と中程度の感覚(マインド)の境界面に結ばれる物理像では、
想定空間を前提にしていないので、
開いていない箱と開けた箱、この部屋と隣室はまったく別の世界、異なる宇宙です。
五感的でない中程度の感覚で、AとBはつづいている(空間)とかAの次にBがくる(時間)といった
関連をつくることはできますが、このAやBは物理像ではなく、かつて物理像であったものでもなく、
最初から想念とか記憶と呼ばれる、思考と感情あるいは気分との混合物です。
要するにAやBは最初から中程度の感覚(マインド)であり、物理像ではない。
というわけで、五感的濃い感覚と中程度の感覚(マインド)の境界面に結ばれる物理像、
言い換えると客体‐空間‐時間思考を使っていない、ハコ(3次元)でない物理像は平面的です。
統覚視点「私」(夢見手)からすると、
さまざまな感覚(周波数、夢)が並行的、一覧的に配置されているという構図になります。
統覚視点「私」(夢見手)は、
五感的な濃い感覚とは別に、それよりやや淡い感覚(中程度の感覚:マインド)を感じ、
さらにもっと淡い感覚(微妙な感覚:高次帯域)も感じています。
そうした淡い感覚を、ハコ世界(3次元)では「上」「奥」あるいは「内側」と表現しますが、
それらは3次元的な比喩で、
マインドも高次帯域も空間的な「上」や「奥」や「内側」に「ある」のではなく、
濃淡や質感の異なる感覚(周波数)として感じられるというだけです。

物理像がハコ(3次元)ではなく平面的に、フラットになるというのは、
自分、自分の足元、手元、周りの世界の生々しさ、臨場感、リアリティが、
実際に感覚的に変化するということで、
その結果、フラットという表現が適切になるわけで、
「ものの見かたが変わる」のとは全然ちがいます。
これは個人差があるかもしれませんが、
私の場合、リアリティ変化のキモは視覚でした。
緑色、四角い、曲がっている、暗い、明るい、といった視覚感覚から、
空気か何かが抜けたかのように厚みが消える。内臓も脳も消える。
すると、高い、低い、遠い、近いといった、触覚もしくは触覚の延長からくる想定も消え、
単なる位置情報、明度や濃淡の情報だけ、みたいな感じになる。
立体という概念は、視覚が感じられない厚み、奥行きを触覚が補強し、
視覚と触覚がタッグを組んで演出していますが、
視覚と触覚がそれぞれ独立する結果、
視覚が「一面に広がる何らかの形の模様」となって、厚みが消える。
すると、聴覚とか嗅覚、痛み、圧力その他の感覚も独立していることがはっきりします。
すると、作業の段どりを考えるとか、テンションが上がるとか下がるとか、モヤモヤする、
といった思考、感情、気分の動き(マインドの動き)もそれぞれ中程度の感覚として独立していて、
五感的な濃い感覚とは関係していない、ということがはっきり実感されます。
この時点で、「これこれの出来事が起きたからこういう判断をする、こういう気持ちになる」
という、あの、ハコ世界(3次元)ではおなじみの問題起動‐対処反応とすっぱり縁が切れます。
また、思考、感情、気分もそれぞれ独立した中程度の感覚で、相互関連はないので、
「ネガティブなことを考えたからいやな気持ちになる」ということもなくなる。
というか、ネガティブな考えのネガティブさとか、いやな気持ちのいやさとかが、
中程度の感覚にすぎないと感覚的にわかると、
それらは流れていく雲とか煙みたいなもので、どうでもよくなるのです。
ゼロポに還したければ還せるし。すぐ消えるので、私はおおむね放置してますが。

客体‐空間‐時間思考を使わなくなる、
ハコ(3次元)から平面世界(4次元)にリアリティが変わる、
この流れは、五感的な濃い感覚-中程度の感覚-微妙な感覚、というように、
全事象の感覚化(波動でとらえること)を促し加速させるので、
どの感覚帯域も、あれよあれよという間に唯の感覚になり、
①「これは五感的な濃い感覚だ」
②「これは五感的でない中程度の感覚(思考、感情、気分)だ」
③「これは微妙な感覚(直感、直知、閃きなど)だ」
という、各感覚帯域の濃淡差、ちがいが非常に明瞭になります。
これは言葉で読み聞きしていると瑣末なことのようですが、
実際そのように感じてみると、すごく大きな変化、シフトです。
ハコ(3次元)にリアリティがある状態だと、
①と②が、②優先で癒着していて、
ナマの濃い感覚がわからなくなっているし、
②も「五感的ではない」中程度の感覚である、と見切れず、
①の濃度で出現しているかに勘ちがいできてしまいます。
時間思考を付加して書き表してみると、
<現在> 「予定していたとおりに(思わぬ展開に)なった」
 →五感的な濃い感覚の集まりを先取り解釈によって整形している。
<未来> 「この現況はこれこれの状況につづいていく」
 →整形された現況~これこれの状況までを「現実(※)」と認識する。
<過去> 「この現況はかつての状況のつづきである(またはかつての状況の影響下にある)」
 →かつての状況~整形された現況までを「現実」と認識する。
※未来の「現実」は、「やがて訪れる濃い感覚」という中程度の感覚を含み、
過去の「現実」は「かつてあった濃い感覚」という中程度の感覚を含んでいる。
どちらの「現実」もナマの濃い感覚ではなく、中程度の感覚(この場合は思考)である。
現在の場合でさえ、解釈による整形をへているので、ナマの濃い感覚ではない。
なお、濃い感覚は「私」に感じられるとそこで終わりで、中程度の感覚に移行したり変容したりはしないので、
「かつてあった濃い感覚」はどこまでも中程度の感覚(思考)で、かつて濃い感覚であったものではない
(記憶は「かつて実在したこと」ではなく、最初から記憶という中程度の感覚であるという意味)。


五感的で濃い-中程度-微妙、という各感覚帯域のちがいがくっきり明瞭になると、
質的なちがいにも鋭敏になり、
中程度~微妙ゾーンで感じられる情報のうち、どの情報が活かされるかもはっきりするし、
不要な情報はごっそり抜け落ちます。
また、濃い感覚帯域が変わる(行動する)場合には、迷いやタメがなくなります。

ハコ(3次元)から抜けて平面世界になると、
まず五感的な濃い感覚ゾーンの表現力の瑞々しさ、多彩さ、
それが適切にレイアウトされた物理像の交響的豊かさに驚き、感動します。
ときに、音楽でいう「倍音」みたいな響きを伴っていることもあるし。
それと中程度の感覚(思考、感情、気分)のエネルギー的な大きさ、ダイナミックスにも。
ふと考えが湧いたり、ちょっとある傾きをもった気持ちが現れても、
なんとか湾流くらいの波が動いている。
微妙な感覚ゾーンは、フォルティッシモで滔々と深閑なんで、
ああ、そうだった、と思い出す回帰感はあっても、驚きはそれほどでもないかな。
感覚が具体的になればなるほど新鮮です。
ポジネガ関係なく。
ポジは長調、ネガは短調みたいなもので、
どっちにしても、何調にしても、単に調ですよ。
全部が感覚(周波数、波動)に還元されてしまうと、それが如実にわかります。

いちばんわかりやすかった、当たり前だったはずの物理感覚がフェイクで、
はじめてほんとの五感的な濃い感覚が出現したって感じ。
  1. 2019/07/04(木) 14:28:23|
  2. 平面世界(4次元)
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リアリティの変化と次元上昇①

2019.6.28(金)

四角かったり丸かったり固かったり柔らかかったりする物理像は、
中程度の感覚(マインド)と五感的な濃い感覚の境界面に結ばれる。
スピリチュアル用語でいうところのエーテル界。これは平面的である。
※五感的な濃い感覚は、0/1帯域からまっすぐズドンと降りている物質波が反映され、
増幅されて濃厚になっているので、エーテル面で結ばれる物理像はコントラストが強い。
物質波を反映させなければ、エーテル面の像はもっとマイルドである。


視覚像は飛び出す絵本に喩えられる。
ひとつの面が織られてできている像に、織られた紙とは別のブースから聴覚や触覚、味覚、嗅覚、
圧力、痛み、痺れなどが出力されて、物理像世界ができている。
人体と見え、感じられる像も絵本の一部であり、面なのだけども、
飛び出す絵本を閉じたハコ(立体世界、いわゆる3次元)だと思っていると、
人体像には体積や中身があるという設定になる。
さらに、濃淡や質感がさまざまな感覚をまとめて認識する視点(私)の出自をハコに属する人体と
設定する(「私」とは自身の身体組織から生じた自意識だと定義すること)と、
ハコ世界は「私(人体)」と「非私(皮膚の外:環境)」に分離し、
この分離を「非私(環境)」に当てはめることによって(※)、「非私(環境)」は幾重にも分離し、
幾多の「私」、動植物の原理、無機物の原理が相克する戦国世界となる。
※「私(人体)」と「非私(環境)」との分離を「非私(環境)」に当てはめるということが、
他人の立場や気持ちになって考えること、他人にも身体や心としての「私」があると想定することである。
自身の身体像もマインドも、他人の身体像もマインドも、
統覚視点「私」が認識し創造している像であり、感覚に濃淡や質感の差があるだけで、
一筆描きを面的にした平面世界ではひとつづきである。


飛び出す絵本を閉じたハコだと思っているのは、
客体‐空間‐時間思考を使って客体‐空間‐時間世界(ハコ世界:3次元)を起動するとともに、
そこに潜り込んで自分を欺いている「私」である。
 ↑
何度も書いていると思うが、こういうことは全部マインド帯域すなわち中程度の感覚、
一般的に「頭のなか」と呼ばれる世界で起きていることで、
五感的な濃い感覚はまったく関与していない。
3次元というのは頭のなかで制作されたイリュージョンである。
スピリチュアルでもそうでなくても、多くの人が3次元の立体世界を現実と呼んで、
現実に向き合うとか対処するということを問題にしているが、
3次元を現実と呼ぶなら、現実は100%頭のなかでできている。
一般的な意味でのリアリストは、最もリアルから遠い。
(上述の「一般的」とは客体‐空間‐時間世界のルールにしたがった場合のことをいう。)

ついでに書いておくと、いわゆるグラウンディングをするときに、
3次元を着地点にしていると客体‐空間‐時間思考を再インストールすることになる。
なので、視覚情報とか聴覚情報とか、五感的な濃い感覚に集中したほうがよい。

ハコ世界(客体‐空間‐時間思考を使ってアウトプットされる3次元)から平面世界へ移行する、
これは、自分、自分の足元、手元、周りの世界の生々しさ、臨場感、リアリティが変わる、
ハコ(3次元)の厚み、威圧感が失せるということである。
私は自分がいつそうなったのかよくわからない、もう憶えてないし、
とくにこれといったきっかけもなかったような気がするのだけども、
「立体がうそくさい」時期はあったような気がするので、
奥行き、高さ、遠近、内部構造などの立体空間に対する、
「見えていない、感じていないのに、なぜそれがあることが前提なのか?」
という疑惑が生じることは、移行を示唆するめやすといえるかもしれない。

ハコ感(3次元がリアルに感じられる状態)と平面感の大きなちがいは、
ハコ感には余裕がないが、平面感には余裕があるということだ。
ハコは「私」の認識に先んじて存在している客体であり、
「私」が感じようが感じまいが、どう感じようが関係なく、客体固有の法則で存在し、変化する。
つまりハコ世界はハコ固有の法則に支配されている。
「私」もハコの一部(身体)なので、ハコ固有の法則に支配される。
しかし、平面世界は客体ではなく像、あるいは夢なので、そこに固有の法則はない。
平面世界は、
①微妙な感覚-連動→②中程度の感覚-連動→③五感的な濃い感覚
と、「私」の感じている感覚(周波数)がより具体的になった結果である。
①②③の全部がひとつの宇宙、ひとつの場面で、
これがどの場面とつながっているか(空間)、
これがどの場面のつづきで、次にどの場面がくるか(時間)、
定まってはいない。
したがって、どうにでもなるのである。
というか、物理像が平面世界なら、それはもう客体‐空間‐時間思考を離脱しているということ、
マインド(②の中程度の感覚)が客体‐空間‐時間思考に乗っ取られていないということだから、
①-連動→②-連動→③と連動して現れてくる場面を感じて創っていればよく、
あれをこうしてとか、こうしなくちゃとか、目論む必要もない。
(ハコ世界ではこの種の目論見が頻出し、複雑でリーチの大きいパフォーマンスにマインドが
ヘトヘトになる。で、③は疲れたマインドと連動して疲れた五感的感覚を出現させる。)
「行動しないと何も変わらない」式に意思の発動が求められるのはハコ世界の理屈で、
行動なんか、必要なら勝手に起きるのである。
というか行動は、面的一筆描きで平面世界に含まれているから、
それだけ平面世界から切り離して単独で起こしたり止めたりすることはできない。

瞑想とか、何らかのスピリチュアルワークをしていてなお、
「それはそれとして」来月の支払いが、とか、持病が、とか、職場で使えない人間になっていて、
といった考えが出てきて、
「この“現実”にスピリチュアルな収穫をどう活かすか」
といった発想しか出てこないのだとすれば、
自分、自分の足元、手元、周りの世界の生々しさ、臨場感、リアリティが、いまだハコ優勢なのだ。
言い換えると、ハコ優勢のとき、
そういう問題指向、対処指向、ハコ(3次元)的未来指向になる。
ハコ世界、立体世界、3次元は中程度の感覚(マインド)で組み立てられたもの、
五感的ではない中程度の感覚ですよ?
スピ用語を使うと低次アストラルゾーンの世界。
そのようなフワフワとしたイリュージョンを、たいそうに「現実」と呼べるのか?
とはいえ、フワフワとしたイリュージョンに生々しさを感じ、リアルであればこそ、
それを「現実」と呼んでしまうのだろうけど。
↑ いろんな問題に即座にのめり込まず、「あれ?」と違和感を感じることができれば、
ゼロポイントフィールドに還せる。
しかし、違和感に気づけるには、問題を産出するハコがまやかしだと実感できる程度には、
ハコから解放されていなければならない。
ハコ世界(客体‐空間‐時間思考を使った客体‐空間‐時間世界)一択状態だと、
問題が起きることに違和感を感じられない。

瞑想や、このブログでも紹介しているような何らかのスピリチュアルワークは、
自分、自分の足元、手元、周りの世界のリアリティを変えていく。
3次元 > 平面感
と、最初は圧倒的にハコ世界(3次元)優勢であった感じ(周波数)が、
ある臨界点を超えると、ハコ世界のリアルさが希薄になり、
3次元 < 平面感
と、五感的な濃い感覚が結ぶ面的な物理像に生々しさを感じるようになる。

ところで、この面というのは、五感的な濃い感覚と中程度の感覚の境界面だから、
3次元 < 4次元(エーテル面で結ばれる物理像)
と表すこともできる。
この4次元は、立体空間に時間を加えた物理学の定義とは関係なく、
感覚の濃度において、五感的な感覚ほど濃くはないが、中程度の感覚ほどエア的ではない、
ジェル的な中濃感覚すなわちエーテル帯域のことです。
ジェルというのは、その変わりやすさ、柔らかさの喩えであって、
物質的なジェルっぽさ(五感的な濃い感覚で感じたジェルジェルヌルヌル)ではありません。

私の場合、「物理像とはエーテル像のことです」と最初に伝えてきたのは
アニータ=クラリッサ@プレアデス=シリウスで、
それからさまざまなentitiesから同じことを聞いている。
物理像は3次元(立体世界、ハコ)ではなく、
3次元というのは客体‐空間‐時間思考を使って編んだ、むしろ特殊なローカル宇宙なのである。

エーテルとか4次元とかいう言葉を出すと、ハコ世界に対応している言葉の意味がまとわりついて
何やらオカルティックな感じがしてしまうけども、
自分、自分の足元、手元、周りの世界の生々しさ、臨場感、リアリティが変わるというのは、
べつにオカルティックなことではない。
次元上昇は、次元の明確化ではじまるといっていいかもしれない。
五感的な濃い感覚と、五感的でない中程度の感覚の境界面に
五感的な濃い感覚をまとめた物理像ができる、
それがはっきりするということ。
五感的な濃い感覚が想念(3次元のハコをつくっている客体‐空間‐時間思考)から剥がれ、
解放され、想念なしのナマの物理像が出現するということ。

瞑想やスピリチュアルワークが促しているのは、
はるか高い、遠い世界を見聞きすることではなく、
足元の、いちばん濃い感覚を、感覚にすぎないと見破ること、
いちばんわかりやすいはずなのに見逃しているこのことをとらえることである。
よく言われる「現実は中立である」とはこのことです。
濃い感覚による一次情報だけで、想念による二次情報が被っていないということ。
感覚だけの感覚、それが適切にレイアウトされたナマの物理像がわかっていれば、
わざわざ高い、遠いところに出向いていって(集中フォーカスして)、
「もしもし、進捗どうなってますか」などと訊ねる必要はない。
  1. 2019/06/28(金) 14:15:13|
  2. 平面世界(4次元)
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物理世界の平面性について

2019.6.21(金)

客体‐空間‐時間思考を使った客体‐空間‐時間世界は、閉じたハコの世界である。
先ずハコがあって、「私」もハコの一部で、
「私」を含むそのハコは、
ここからあそこへと広がっていたり、内部があったりし、だんだん変化していく。
この人もあの人もハコに含まれる「私」であり、
どの「私」にとっても、空間の広がり、時間の変化は一律である。
ハコにはハコ固有の法則があって、どの「私」も、それを発見したり学習したりはできるが、
変えることはできない。
なぜなら「私」もそのハコからできているから。

しかし、青いとか熱いとか固いとか甘いとかいった五感的な濃い感覚の集まりをひとつの世界像に
まとめた物理像は、決してハコではなく、どちらかといえば平面なのだ。
この平面世界では、平面上に見える体幹や手足は、床や壁や机などと同じ平面上にあって、
面的な一筆描きのようにひとつづきである。
足がふれている床は「固い」が、
平面上に見える皮膚がふれていない壁は見えているだけで「固い」と感じられないのは、
「固い」という感覚は床にふれている足で終わっていて、壁に至っておらず、
壁は見えているだけだからである。つまり視覚と触覚という質の異なる感覚でとらえているからだ。
質の異なる感覚が交じり合いながら、平面世界は面的な一筆描きのようにつづいている。
平面世界はハコではないので、平面世界には広がりも奥行きも内部もない。
宅配便の箱を開けて中身の品物をとりだす、というのはハコ世界の見かた。
箱を開ける、中身が少し見える、手で中身を持ち上げた、品物をテーブルに置いた、
これらは全部、別々の場面で、本来、個々の場面に何のつながりもない。
どこまでもフラットな、プレーンな、この平面世界が、
微妙な感覚(直感、閃き、直知、即時通信といった高次帯域の感覚)と連動した
中程度の感覚(思考、感情、気分といったマインド帯域の感覚)に連動して現れている世界である。
そして、微妙な感覚、中程度の感覚、五感的な濃い感覚、
これらすべてを感じて創りだしているのが「私」である。
「私」とは、濃淡と質感がさまざまに異なる感覚を統覚し、
対象化して創造するとともに対象として認識する、この作用の動因であって、
球の中心(中心に体積はない)、円の中心(中心に面積はない)みたいなもので、
身体でも心でも魂でも精神でもない。

平面世界は「私」が認識し創造した像であって、それ以前からずっと存在している客体ではない。
なので、固有の法則もない。
それは、
①「私」が微妙な感覚を感じて創りだす=高次世界Xの出現
②「私」が高次世界Xと連動する中程度の感覚を感じて創りだす=マインド世界Xの出現
③「私」がマインド世界Xと連動する濃い感覚を感じて創りだす=物理像(平面世界)Xの出現
として現れた、感覚世界(周波数世界)の最終ステージである。
どのステージでも、「私」が何を感じるかによって現れることが変わり、世界の様相が変わる。

喩えを使って簡単にすると、
①映写機(高次世界)
②映写機とスクリーンの間(マインド)
③スクリーンに映った映像(物理像=平面世界)
ということができる。
で、客体‐空間‐時間思考を使うとは、②のところにいろいろな遮蔽物を置いて、
③に映る映像を改変してしまうことなのですよ。
だから、この遮蔽物(客体‐空間‐時間思考システム)をどかせば、
本来の、見たかった映像が見られるわけです。
でもって、スクリーンに近すぎると、遮蔽物の存在にはまったく気がつかないんで、
「私」の注目先を③まで後退させる必要がある。
もちろんフィルムを差し替えることもできますが、それをするとしても遮蔽物をどかすのが先。
ややこしいことは全部②で起きていて、
①と③は放ったらかしでもだいじょうぶです。

2段落目で、物理像はハコではなく、「どちらかといえば」平面と留保をつけたのは、
客体‐空間‐時間思考を使ったハコ世界の平面感とはちがうからである。
客体‐空間‐時間思考を使わないと、
視覚像からはあきらかに厚みが抜け、「内部を考える」思考反応もなくなるので、
視覚像は最も平面に近くなる。
そのほかの聴覚、嗅覚、味覚、触覚、痛みや圧力感の像などは、
視覚像とは直接関係のない別ブースにあって、
BGM的に視覚像と並行している感じなのである。
(私の場合は、五感的でない聴覚像、触覚像も、五感的な感覚とは別のブースから入ってくる。
宇宙音とか、微弱電流的な振動とか)
そして、この平面世界とは別に想像とか記憶とか気分が起きたり消えたりする世界、
さらにそれとは別に、高速でオンオフが切り換わっている(振動している)世界がある、という感じ。
一般的には、平面世界の「上に」想像世界が、想像世界の「上に」高速世界がある、
という記述になるだろうが、空間的な「上」ではないし、「奥」でもなく、
何か場のような広がりがあるっぽい別世界、異世界というのが実感であろうか。
むろん、想像世界、高速世界からすれば、平面世界が別世界であり異世界である。

客体‐空間‐時間思考を使った客体‐空間‐時間世界では、
物理世界は3次元で、3次元は立体ということになっているが、
この3次元、立体は思考の産物で、生の物理感覚ではない。
生の物理感覚に沿えば、物理世界はちっとも立体じゃなく、
さまざまな五感的濃い感覚が行き交う場なのである。

↑これがわかるためには、ほんとは訓練の類は不要。
五感的な濃い感覚を、生のままそのまま感じればいいだけである。
「壁はコンクリートだから固い」とか「作用反作用がうんたら」とか、どんな説明もつけずに。
さらには「固い」「固さ」という表現だって、言葉という象徴を使った便宜的なもので、
感覚そのものではない。
でも、客体‐空間‐時間思考を使っていると、速攻、無自覚に解釈を重ねていて、
種々の感覚に、奥行きとか広がりとか内部とか過去とか現在とか未来といった思い込みを
伴わせてしまうのである。
これが上述の映写機の喩えでいうところの遮蔽物である。
感覚にあらかじめオブラート的なものをかけているといってもよい。
訓練の類が必要だとすれば、この遮蔽物、オブラートを除くためだ。
以下は私的なつぶやき。
あらかじめ行間を魂や精神の術語で満たして本を読んでいると、どんな作品でも、本じゃなくても、
まさかの驚きなんかやってこないよ、という『表層批評宣言』(蓮實重彦/ちくま文庫)は、
全然デムパじゃない著作にもかかわらず、
私が物理世界の平面性を言語化するプロセスとシンクロしていて刺激的でした。


ハコ世界としての3次元は、「私」も、「私」が感じて創っているはずの像も、
全部ハコに閉じ込め、ハコ固有の法則に従属させる。
これが制限である。
そして、ハコ固有の法則は、複雑になることはあっても、すっかり解明されることはない。
ハコは「私」より先にあって、「私」もハコの一部である以上、
「私」の認識能力はハコの都合(人間の寿命、生存条件、惑星の寿命などの環境条件ほか)に
制約されるからである。
ある程度まで解明された法則を応用して「私」の境遇や周囲の環境を改善しようとしても、
「私」の認識能力の限界を超えた偶然によって頓挫する恐れは常にあり、
実際に頓挫することもある。
なぜ現実は思いどおりにならないのだろう、って、それは、
現実は思いどおりにならないと最初から決まっているゲームに興じているからです。

最後に業務連絡。
前々回の記事にコメントくださったYさんに、リラ爺からの追伸伝言です。
このメッセージはYさん以外にも受け取る予定の方がおられるようなので、ここに公開します。
「脳というのはのう(←ここで笑ってほしいみたい)、チャクラといっしょだよ。
あるということにすればあるし、ないということにすればない。
あるということにしたときにはあるし、ないということにしたときにはない」
  1. 2019/06/21(金) 15:49:22|
  2. 平面世界(4次元)
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Author:みけ@猫科ホールディングス
アルクトゥルス系在地球人。
男女どちらにも属さないトランスジェンダーで、
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