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ソロ・パブリッシュ

エア充。

思考のドラマ

2018.10.19(金)

①まずいことが起きた、この状態はやばい、という思考が湧く。
                 ↓
②反射的に思考のなかに原因とおぼしき思考をサーチします。
「あのときこれをしなかった(またはしてしまった)」「誰それの言動がこうだった」云々。
                 ↓
③そして自己批判、または他者批判の思考とつながる。
刺々しい感情や、落ち込んだ気分ともつながる。
「自分のこういうところがだめ」「誰それはいつもそう。言葉が通じない」云々。
                 ↓
④まずいこと、やばい状態は修復しないといけない、という思考ともつながる。
なので思考のなかに対策、防衛策となる思考をサーチします。
ストレスを感じますが、しかたありません・・・。

と、以上のようなジタバタは、マインド帯域で繰り広げられるドラマです。
主役は思考で、思考の動きに反応して、感情や気分も動員されます。

このドラマに、物理事実、すなわち五感+痛みの感覚などの濃い感覚は、
微塵も介在していません。
直感、直観イメージなどの微妙な感覚も、まったくかかわっていません。
全部マインド、すなわち思考や感情などの中程度の感覚で起きている騒動です。
そもそも、まずいだのやばいだのという発端からして思考だし。

それが見えていて、右往左往する思考、ハジける気持ちをやりすごすことができれば、
もし対策が必要なら、自然な行動として自然に起きてきます。ストレスなく。

②の原因サーチをしているときには、
「過去の事実」や「過去の事実に似た事実」を探している気でいますが、
過去にも未来にも、事実なぞありゃせん。
五感+痛みなどの濃い感覚、これ以外に事実などないのです。
「かつては濃い感覚だった(事実だった)」と思えるのは、
観察視点「私」に先だって物があり、物は広がっていて、生滅の方向で変化している、
という客体‐空間‐時間思考が作動しているためです。
これは①~④などの思考を下支えしている思考です。
あれこれの雑多な思考というのは、視覚や触覚などにならないけれども、
「感じ」として感じられるエネルギー的な塊を、
客体思考や空間思考や時間思考でつないでスジが通ってるように仕立てたものです。


人間は、言葉とか身振りとか絵図といった象徴を使って思考や感情をやりとりします。
この象徴ツールが濃い感覚すなわち物理的な音や形などでできているので、
いかにも感覚の向こう側に象徴のもとになる客体(物体)がありそうな気がするけど、
言葉や絵図などが象徴しているのはマインド(思考や感情や気分)であって、
濃い感覚(物理像)ではありません。
私が「赤」と言うとき、その音声や文字は思考(記憶)にある色をさしていて、
それは視覚で感じている「感じ」ではありません。
「赤い」「冷たい」「柔らかい」「痛い」とかの濃い感覚は、
その人固有の感覚として、言い換えるとその人固有の周波数として感じられるので、
人と共有できません。
同じく「自分の考え」や「自分の気持ち」も人と共有できないのですが、
考えや気持ちは客体‐空間‐時間思考に支えられており、
「誰も彼も客体(物体)の一部、客体の法則(物理法則など)にしたがっている」
(=みんないっしょ:仮想集合システム)という暗黙の了解があるために、
共有していると思い込むことが可能です。

濃い感覚、すなわち物理事実は、
まずいだのやばいだの、何が原因だの誰のせいだの、どうにかしなくちゃだの、
がちゃがちゃしたおしゃべりは一切していません。
すごく寡黙で、深閑としています。
よい、わるい、望ましい、望ましくない、そういう判断がない。
ポジティブにもネガティブにも傾いていない。
バシャールのいう「どんな状況も中立である」とは、そういうことです。
濃い感覚は、思考などの中程度感覚とは別のレイヤー(層)、別の周波数帯なのです。
濃い感覚が織りなす物理像世界って、とんでもなく静かです。

といっても、思考が諸悪の根源というわけではありません。
パフォーマンス過多が鎮まれば、動作は正常化し、適切な思考として役立ちます。
適切な思考とは、微妙な感覚すなわち高次帯域と協働し、
直感的な行動指示や、直感的な理解、アイデアとして現れ、
濃い感覚(物理像)の量子跳躍的変化への橋渡しになる思考です。
微妙な感覚は、思考を通さず、ダイレクトに行動や態度として現れることもあります。

適切な思考の特徴は、高速で、明晰で、イッキにわかること。
ウダウダした迷いはなく、危機感めいたプレッシャーもありません。
決断を必要とするような特別な場合だけではなく、
誰かに連絡するとか、作業の手順を決めるとかの場合でも、
思考が適切に動いていると、とてもスムーズに進みます。

先日、youtubeを見ていたら、
ネットお得意のお節介機能(笑)「あなたへのおすすめ」のなかに
こんな動画を見つけました。
このブログの管理人と本質的には同じことを言っておられると思われ、
もっと単純明快に説明されています。
なので、勝手ながらご紹介させていただきます。
7分半程度の動画なので、お時間のある方はご覧になってみてください。
  ↓
スピリチュアルヒーラーmomoyoさんの<MOMOYOチャンネル>より
「思考を止めるだけで不思議な事が起こる?!」
https://www.youtube.com/watch?v=EuvcWdnAEuE
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  1. 2018/10/19(金) 16:29:24|
  2. 仮想集合システム
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セルフアセンションと仮想集合システム

2018.10.14(日)

ここんとこずっと、仮想集合システムについて書いています。
仮想集合システムとは、形があるわけじゃなく、思考のフレームになっている思考、
いろんな思い込みのもとになっている土台の思い込みのことです。
まず「私」という観察視点に先んじて物体があり、
「私」は物体の一部(身体)から生じた自己意識にすぎないとする客体思考がある。
「私」が感じようが感じまいが、先に物体がある、とした時点で、
「私」は唯一独自の観察視点から、大勢の身体+自己意識のひとりに転落します。
そして誰にとっても一律に広がる空間があり(空間思考)、
誰にとっても一律に推移する時間がある(時間思考)、と考えられる。
客体‐空間‐時間思考システムともいいます。
なぜ仮想集合システムと呼ばれるかというと、
「誰にとっても同じ(集合)世界」という「仮想」をつくりだすからです。

宇宙は「私」が語り手になる一人称小説のような世界で、
作者が超越的な視点から登場人物を描く三人称小説のようにはなっていないのですが、
仮想集合システムを導入すると、
ここはみんなが同じ舞台に載って動いている三人称小説的な世界だと、
語り手から登場人物のひとりにダウンサイジングされた「私」が錯覚するわけです。

「私」が意識する前から物体があり、それが広がっていて、変化する、
これは、あまりにも当たり前すぎて、ふだんは意識されることもない一般常識ですが、
じつはとくに根拠のない思考工作物で、
思考工作物だと気づけば、思考工作物からはずれる、ということを、ずっと書いている。
はずれたあとは、濃淡と質感がさまざまな感覚を「私」が感じている、それだけです。
感覚宇宙では、物体も、身体も、空間も、時間も、
特定の感覚のまとまりをさす名前にすぎず、実在していません。
ある視覚、触覚の束を「カップ」と呼ぶとすると、
視覚、触覚の束と、カップという音ないし文字(視聴覚)と、
音や文字に対応する「これこれの感覚のまとまりがカップである」という定義があるだけ。
視覚、聴覚、触覚などは濃く強い感覚だし、
定義(思考)も視聴覚などよりは相対的に淡い感覚なので、
全部、感覚であって、
物体とか、その広がり(空間)、変化(時間)は、実在ではないのです。

こないだから、いろんななりゆきで、初期のバシャール本を読み返しているのですが、
今回は、コンタクトする側(バシャールと呼ばれるentity)の視点で読めてきて、
それが新鮮なのだわ。

高次entityとのチャネリングなどは、「私」が感じるなかでも最も微妙な感覚で、
濃い感覚(物理像)や中程度の感覚(思考や感情など)と同じく、
「私」という軸が感じ、かつ創造しているものです。
バシャールや、媒介者となっているダリル・アンカ氏は、
「私は~」という一人称小説の世界で情報を発信し、
会場にいる聞き手も質問者も、やはり一人称小説の世界で情報を受信します。
すると、「前方に青い瓦屋根が見える」という情報が、
「うしろに煉瓦造りの壁がある」という情報として伝わることもあるのですが、
これで辻褄が合っているのであり、
受け手が青い屋根方向に合わせるとか、送り手が煉瓦の壁方向にずらすとか、
ヘンな忖度調整をかけると、かえっておかしなことになってしまう。

本には、
「バシャールという存在が本当にいるのかどうかはどうでもよく、
伝えている情報に焦点を当てて、使えるのであればどんどん使ってほしい」
「質問の答は自分のなかで見つかる。
質問とは、自分がすでに知っていることをいったん外に出して、再発見するプロセスだ」
という主旨のことが繰り返し出てきます。
これは、メッセンジャーを教祖にしたり、インチキかどうかを問題にするのではなく、
伝えている情報が役に立つかどうかで判断してほしいと言っているように読める。
でも、それは「仮想集合システム下にいる“私”たち(=地球人)」に沿った翻訳、
言い換えると一般常識でわかりやすい表現で、本当は、
「どんな情報も、自分バージョンでしか受けとれないし、送れない」
ということを言っています。
常識翻訳は、この根本原則を、わかりやすいように変形させているといっていいでしょう。

しかし、会場にいる聞き手や質問者の方たちは、
どうも無自覚に客体‐空間‐時間思考の工作物のなかにきっちり収まっておられるっぽく、
誰から見ても妥当と思えるような、
当事者不在の、三人称小説的な情報があると思っているみたいで、
要はこの三人称小説的な情報が「使えるか」「役に立つか」が問題なのだと、
かんちがいしておられるようです。
そのあたりの行きちがい加減に、
「さっき言ったじゃん。もしかして伝わってないとか」
「波動と言葉が真逆の地球人あるあるキタ」
といったバシャールの驚きが感じられておもしろい。
2巻目あたりから、ワクワクすることをしてください、ただし「統一性をもって」
というわかりづらい補足文言がついたために、いっそうインターフェイスが混乱w
「統一性をもって」とは、ワクワクすることをするためにワクワクしない手段をとるな、
ワクワク波動は一貫してるんだ、コヒーレントなんだ、ってことですが、
「人に迷惑をかけないよう心がけつつワクワクしよう」的な、珍妙な雰囲気になって
しまいました。

本来、自分バージョンで受けとられる情報が仮想集合システム仕様になると、
思考工作物によるバイアスがかかって、
オーダーメイドの服が既製服に、どころか誰にも似合わない制服に変わります。
誰にも似合わなくなるのは、「私」という当事者がいないから。

いわゆるアセンションに関する数々の情報も、
「みんないっしょ」の客体‐空間‐時間思考という思考工作物を経由したために、
お祭りの準備をしては雨天順延みたいなことが繰り返され、
そのたびに制服サイズに消沈しています。
本来なら「前方に青い瓦屋根」と「うしろに煉瓦造りの壁」でベストの相乗効果が
現れるはずなのが、
個々人が「みんな」と「私」の間を行き来して堂々めぐりしているので、
個々人の自分バージョンの情報(=エネルギーでもある)も解凍しきれていません。
巷で何が流行ろうと廃れようと、
誰かの予言が当たろうとはずれようと、
自分バージョンのソース(情報、エネルギー)はちゃんとキープされているので、
それを「感じ」として感じとるのが先です。
感じればアクティベートされる(活性化する、ONになる)ので。

バシャール本の発行所と同じヴォイス社から刊行されている、
マイク・マクマナス氏の著書『ソース』には、
「目標を立てず、めざす方向だけを決めておく」という表現があります。
アセンションと呼ばれている流れにも、
濃い感覚(物理像)と中程度の感覚(マインド)に閉じ込められていた
「私」の制限が解け、微妙な感覚(高次帯域)が感じられるようになる、
個々人がそれぞれトータルな宇宙になる、
という方向性しかありません。
速度や、具体的にどんな世界、センス、能力となって表出するのかは、
人によって全部ちがいます。
  1. 2018/10/14(日) 21:29:29|
  2. 仮想集合システム
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「社会」というまぼろし

2018.10.2(火)

筆者のガイドentityのひとりであるソフィア@シリウスとの対話です。

みけ 今回は珍しく、「社会」についてうかがいます。
つっても、私がマインドでキャッチしてる範囲の、せまーい社会だけどね。
最近、むかしの、「ニューエイジ」の時代の本を読み返していて、
初読のときの自分がどう受けとめていたのかはもう憶えてないんですが、
今の自分にはあきらかに当てはまらない部分が多々あり、
けど、それはさほど気にならなくて、エッセンスは今でも役立つと思ったの。
ただ、自分がマインドでとらえてる「社会」のほうは、ニューエイジの本が書かれたころ
からあまり変わってない印象があって。
ソフィア どういう印象?
みけ 大前提として客体としての物体があって、物体の一部である身体があって、
身体の諸反応や、諸反応を象徴化した言葉や身振りとかから主観世界ができる、
この客体‐空間‐時間思考システムにもとづいて、システムに気づかずに、
客体である環境から客体である自身の身体や、
身体に依拠する主観世界を守る活動がつづいてるってことです。
それが将来設計であり人生設計であり。具体的には、受験とか就活とか婚活とか、
脳をはじめ身体の諸器官の健康を維持したり、衣食住をメンテナンスする活動。
メンテナンスって、健康や衣食住を楽しむためじゃなく、
自転車を漕ぎつづける機能を維持するためにしてるんです。
ソフィア 自分がシステムに気づいて、「私」を軸とする感覚宇宙になっていても、
マインドにはシステムを前提とする情報があふれている、ということ?
みけ そうです。
ソフィア あなたはそれでがっかりしたり、不安になったりしているの?
みけ いえ。私はもともと土台のシステムがちゃんとインストールできてなくて、
仮縫い状態だから、脱システム一択なんですよ。
ウォークインしてこのかた、ずっと違和感があってずっと不安で、ずっと背水の陣、
だからこのままだとやばいとか、今からでもちゃんとしなくちゃ、ってのはありません。
ずっとキワキワの綱渡りでやばかったんだもん。
マインドでとらえた社会の情景とズレてるのも、ずっとそうだから、気にしてません。
ソフィア じゃ、いいじゃん。何が引っかかってんのよ。
みけ えっとね・・・スピリチュアルとか精神世界チックなことやっている人は、
それが多数派かどうかはわからないけど、少なくとも一部の人たちは、
自分の量子跳躍(覚醒、気づき)と社会の変化がシンクロすることを期待してた気が
するの。2012でも2016でも2024でも何でもいいんだけどさ、
あるターニングポイントみたいなのがあって、そこから加速がつくみたいな。
でも私の「感じ」では、とくにシンクロしてないし、加速もついてないのね。
それでがっかりして脱スピする人が増えても、私的には全然どうも思わないんだけど、
そうね・・・この「巻き込み力のなさ」ってどういうこと?っていう疑問です。

ソフィア わかった、OK。
では、あなたがマインドでとらえた「社会」で、就活する人の着地点はどこですか?
どうなれば就職活動は終わるの?
みけ 就職です。会社とか役所とかに入ることが決まれば終了です。
ソフィア 婚活は?
みけ 結婚する相手が確定すれば終了。
ソフィア そうした何々活の最中に、その先のことは射程に入ってる?
たとえば、就活の最中に、結婚のことは計画に含まれていますか?
みけ 考えている人もいるかもしれないけど、一般的には考えてないと思います。
まだ予測できないってこともあるし、先を考えすぎると身動きとれないかもしれないし。
ソフィア 就職とか結婚とかは将来設計、人生設計の中間目標だよね? 
で、就活とか婚活とかは中間目標に到達するための実行プロセス。
だとすると、全体図が描けてないのに中間目標が決まり、
何々活をはじめられるのはなぜだろう?
みけ みんながそうするから、乗り遅れないようにするためでしょう・・・あ!

ソフィア 9月の半ばくらいに、あなたは、ソファイア@シリウスから、
かなり強いメッセージを受けとってるよね? 
みけ ・・・あれね。単刀直入すぎて、コワくて公開してないんですが。
ソフィア それは巻き込み力云々の話と、本質的なところでつながっています。
どんなメッセージでしたか?
みけ 客体‐空間‐時間思考システム、つまり仮想集合システムの目的は、
「私」を客体化した身体とそこから派生する主観世界に閉じ込めておくこと、
言い換えると「私」がハイアーセルフであることに気づかせないこと、だから、
催眠術にかかった人みたく、気づかずにこのシステムにしたがっていると、
「私」は独自の意識ではなく、大勢の身体+主観の1人と定義(思考)される。
「私」を客体化した身体+主観にダウンサイジングすることで、
自分を大勢の身体+主観のうちの一体だと思っている金太郎飴みたいな人間が
いっぱいできて、その同質性が規格化します。
そこから「集合体からはみださない」という暗黙の規範が生まれる。
人間が本当に<人類>という動物種のような群的な存在だったら、
そんな規範なんかなくても規格内に収まるんだけど、
本当は個々ばらばらで、意識の奥底ではヘンだって気づいてるから、
ハイアーセルフとしての「私」を不活性にしておくために、規範で縛るわけ。
ソファイアが伝えてきたのは、
この規範を守ることでどんな見返りがあると信じられてるか、ってことです。
ソフィア どんな見返りですか?
みけ まず安全。「集合体からはみださない」という規範は、
身体+主観に制限された「私」を、客体(物体)でできた環境からもたらされる
リスクから守るための安全策と考えられています。
ただ、身体が客体の一部である以上、機能の減衰、停止は避けられず、
これは身体+主観が「私」になってる人にとっては、
「私」が消滅してしまうということを意味します。
けど、規範を守っていれば、「私」の消滅は穏やかに起きると期待されています。
ソフィア 「集合体からはみださない」という規範を守っていれば、
実際、安全であり、穏やかに消滅できるのですか?
みけ いいえ。仮想集合システムの目的は、
①「私」を身体+主観(マインド帯域)サイズに制限すること
②仮想集合システムそのものを維持すること
この2つだけなので、安全とか穏やかな消滅なんて約束していません。
ただ、そうでもないとやってらんないというか、希望がないんで、
不自然な規範を遵守するストレスを規範内で解決しようとして発生した願望が、
見返りに転化したんです。「そうであってほしい」が「そうなるはずだ」になったと。
たとえば、会社に「課内全員の仕事が終わるまで社に残る」という暗黙ルールが
あるとして、そんなことは就業規則とかには明記されてないんだけども、
それを守れば上司の高評価につながるという期待がある、みたいな。
ソフィア それをソファイアはどう伝えてきたの? 原文のまま率直に言ってほしい。
みけ 「みんなと同じにしていれば楽に死ねる」、
これがシステム下にいる人間の理想の「人生」だと。
人が親しい間柄の人のしあわせを願うとき、その願いの内実は、
「楽に死ねますように」のひと言に要約できるとまで言いましたよ。
身体は消滅しても主観のほうは名前や業績として継承されるとか、
文化集団によってもいくらか差異はありますが、
本音となると「楽に死ぬ」が究極の願いといっていいと。
ソフィア それから? まだあるでしょう。
みけ これが本音の願望なんだけど、「楽に死ぬ」のほうに気づいてしまうと、
「私」の消滅が視界に入ってきてテンションが下がり、
②のシステムを維持するという目的達成に支障が出るから、
下の句は言下に抑え込んでタブーにしていると。
中間目標を達成するための何々活のモチベーションが下がるから、
ふだんは考えないようにしてるってことですね。
最終目標を隠蔽していても中間目標達成のために動けるのは、
「集合体からはみださない(みんなと同じでいる)」規範が活きてるからです。

ソフィア 「集合体からはみださない(みんなと同じでいる)」という規範は、
客体‐空間‐時間思考システムがハイアーセルフとしての「私」を封じ切れないという
弱点をカバーする思考で、もともとシステムに内在するコードです。
だから「仮想」の「集合」に適用するシステムなんだよ。
ならば、客体‐空間‐時間思考という催眠術にかかった状態から覚めた人は、
もはや集合体の動向を気にかける必要はないのでは?
みけ そっか。そうですね。
ソフィア どんな変化であれ、次元の上昇でも下降でも、
「私」を軸とする個々の宇宙の変化は、個々に起きるのであって、
シンクロとか巻き込みとかは必至じゃない。あってもなくてもかまわない。
むしろ、シンクロや巻き込みはないという前提でいていただいたほうがいい。
みけ どうして?
ソフィア 集合体の動向を気にかけはじめたとたん、
客体‐空間‐時間思考システムが再適用されてしまうから。
客体に制限された「私」と客体の他者との関係調整が再び問題になり、
空間思考、時間思考が動きだし、健康、経済、その他の将来の見通しが不安になり、
すべてがもとの木阿弥です。
そして、またシステムに囚われていることに気づき、集合体を気にかけてまたシステムに
戻り・・・と、ここで堂々巡りすることになる。
みけ アセンション関連のイベント告知が空振りに終わるのも、そのせいなのかな。
ソファイア@シリウス そうよ。だから、うちらはイベント告知系の情報は出さない。 
出す必要があれば、空振りを織り込んで変化球にしてる。
ソフィア あなたがたのいう社会は、「私」に先んじて客体(一般的には物体)があるという
客体思考を前提としたときに設定される環境であって、
「私」を軸とする宇宙には環境なんてないんだから、社会もないんだよ。
そもそも、物体も身体もないんだから。
物体とか身体というのは、濃厚な感覚(五感+痛みや嚥下感などの感覚)を
中程度の感覚(思考)で分類、整理してとらえたとき、はじめて立ち上がってくる概念です。
あなたが物体や身体を思い浮かべるとき、
濃厚な感覚の束と、中程度の感覚が重なっていて、
両者を一部の濃厚な感覚(音声や文字などの象徴記号)が結んでいる。
みけ たしかに、濃淡や質感がちがう、いろんな感覚からなる模様があるだけです。
ソフィア その模様をちゃんと感じていればいいわけ。
ある出来事に主体的にかかわるかどうかは、模様の動きのなかで自ずと決まってくるし、
主体的に動くことと静観することの間に優劣はない。
静観すること、通過させることも行動のひとつです。
  1. 2018/10/02(火) 16:46:14|
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感覚宇宙の深いリラックス感について

2018.9.16(日)

物理的な知覚、思考や記憶や感情や気分、微妙で言いがたい直感や直観イメージ、
いずれも何らかの「感じ」で、
スピリチュアル業界ではこの「感じ」を「波動」「エネルギー」「周波数」などと呼ぶ。
世界像とは、そうした濃淡と質感がさまざまな感覚の重なりであり、
さまざまな感覚を感じているという「感じ」が「私」という当事者意識である。

物理的な知覚とは、五感と、痛みや嚥下感などの感覚をいう。
痛みや嚥下感などは、視覚や触覚からなる身体像よりさらに「近く」に感じられる、
いわば拡大された触覚である。
拡大されて「近く」感じられるので、皮膚像の下に内部があるという思考を誘導しやすい。

さまざまな感覚を、「“私”が感じるより先に客体(物体、精神、エネルギーなど)がある」
という客体思考を使って便宜的に言い表すと、下記の<存在論的表現>になる。

<認識論的表現>     <存在論的表現>
  濃い感覚         物理像
  中濃感覚         エーテル像
  中程度の感覚       マインド像(低次アストラル像)
  微妙な感覚        高次の像(超アストラル像)
※中濃感覚は、濃い感覚のコントラスト比率を保って全体の強度を和らげたような
感覚なので、中程度の感覚である思考や感情や気分よりも感じにくいことが多い。

ふむ。なんだかカレーの辛さ段階のようであるな。
カレーでいうと、濃い感覚と中濃感覚は辛さがちがっても具が同じなので区別しづらい。
中程度感覚からは、具がルーに融けていく。
中程度だとまだ具は残っているけど、微妙な感覚になると、具は全部ルーに融けている。

あるもの、見聞きされる他人の言動、思うこと、
すべては、「私」が感じている濃淡と質感がさまざまな「感じ」の重なりである。
物体はない。身体もない。
空間も時間もない。
ただ「私」が感じた「感じ」である。
清々しい。
あんまりないないづくしなんで、昭和のアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」OPの
「オバケには学校も試験もなんにもない」という部分が、
エンドレスでリピートされてしまう。
ちなみに2番は「会社も仕事もなんにもない」で、
3番で「オバケは死なない。病気もなんにもない」だぜ。すげえな。

「感じ」だけだと魂底わかると、すごく深くリラックスし、安堵する。
これはどうしたことかしら、
なぜこんなに、しあわせとも至福ともちがうんだけど近似表現でしあわせなのかしら、
と中程度感覚で感じていたら、数日して理由がわかったわ。

それは、環境が敵対的でなくなるからだ。
全部が「私」の感じた「感じ」の重なり、それだけ、ということは、
その感覚の向こう側に客体(一般的には物体)がデンと控えているわけではない、
と、「感じ」としてわかっているということである。
そうすると、環境という中程度感覚(概念)そのものが瓦解する。
ないものは敵対的になりようがない。
襲っても向かってもこないし、罠を仕掛けたりもしない。ないんだから。

客体‐空間‐時間思考システムを走らせているとき、
「私」に先立って、時々刻々変化していく物体の組み合わせが世界として存在する。
「私」も「感じ」を感じる単なる当事者意識ではなくて、
その時々刻々変化する物体の組み合わせに属する身体が、
物体固有の物理、化学法則にしたがって生じさせる生理反応に、
言語や身振りなどの象徴表現を対応させて、
生理反応や生理反応の解釈を表現する主体とされる。
客体‐空間‐時間思考システムにいる「私」は、第一義的に身体をさす概念である。
「私」は概念(思考)であって身体そのものではないが、
このシステム下では、概念は物体である身体の諸反応を起源としていて、
諸反応のまとまりをさす象徴的表現とされる。
要するに、物体の一部である身体がなければ身体の諸反応も生じないから、
「私」という概念もないということだ。
けれども、第一義的に身体をさす概念だった「私」は、いったん立ち上がると、
ほかの概念や、「感じ」を時空思考で変換した記憶などと連繋し、
それらをさまざまな感情で染めて、セルフイメージに織り上げる。
「私」は身体にもとづきながら、物体や身体の諸反応を抽象した概念の世界で、
セルフイメージを統括する概念へと膨れ上がる。
こうして、概念の世界で身体を超えるテリトリーを獲得した「私」は、
絶えず物体の組み合わせのなりゆきを見張っていなければならない。
物体は、物理、化学などの物体固有の法則で動いているので、
いつなんどき、「私」の基盤たる身体を脅かすかわからないからである。
固有の法則がどこまで解明されようと、
「私」がカバーできる客体は身体だけなので、皮膚の外側にある物体は信用できない。
どころか、身体も物体に通底しているのだから、油断できない。
身体が物体固有の法則をふりかざしてセルフイメージを切り崩してくることもあるからだ。
このようにして、客体‐空間‐時間思考システムを走らせていると、
時々刻々変化する物体の組み合わせからなる環境の動向に用心し、
先手を打って対処しようとする自動反応パタンができあがる。

「私」が感じている感覚の向こうには客体があるはずだという思い込みがなくなると、
客体でできた空間も、客体の不可逆変化の尺である時間もなくなり、
環境なるものがまるごとごそっと抜けるので、警戒が解ける。
「私」が感じている感覚があるだけなので、それを感じていればよいのである。

「私」より先に客体ありきが前提の世界では、
高次発のメッセージを受信することと、
それにもとづいて物体に属する身体を動かすこととは、別の行為になる。
なので、「直感や直観イメージが降りても行動しないと実現しない」とか、
「本当の直感かどうかは動いてみないとわからない」とか、
直感的指示と身体による行動との間に何やかやと葛藤が起きたり、
迷いが生じたりしがちである。
感じることと行動することが分離しているからだ。
しかし全部が濃淡や質感の異なる「感じ」に融解してしまうと、
メッセージを「感じ」として感じることも、
行動することや態度を決めることも、どちらも何らかの「感じ」である。
感じることと行動が分離しておらず、
「私」はメッセージを感じ、行動が起きるのを感じる、それだけになる。感じる即行動。
  1. 2018/09/16(日) 17:20:45|
  2. 仮想集合システム
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次元上昇のひみつ

2018.9.10(月)

身体像を含む物体像を構成しているのは、五感と、嚥下感や痛みなどの濃い感覚。
嚥下感や痛みなどは、主に視覚と触覚で構成される身体像に内部があると感じさせる
感覚である。
医療機器を使って観測した器官は、機器を使うという別の見かたで感じられる視覚情報、
つまり器官像であり、像の向こう側に客体として器官があることを証明していない。
思考や感情は、五感や嚥下感などの濃い感覚よりは淡い、中程度の感覚である。
中程度の感覚には、濃い感覚である音声や文字が対応していて、
「喜び」「怒り」(感情)「何々の手順」(思考)など、さまざまな言葉で表されるが、
言葉というラベルをはずせば、どれも何らかの「感じ」である。

こうして、起きている現象はすべて濃淡さまざまな感覚として感じたことの総合で、
物が客体として実在するとか、
客体として実在する身体の生理反応から主観が生じるというのは、
中程度の感覚に、濃い感覚である音声や文字を当てた思考だと気づくと、
中程度よりも淡い微妙な感覚や、
濃い感覚の質的段差の比率を保って薄めた、言葉で表せない中濃感覚も、
感覚階層の射程に入ってきて、
<濃-中濃-中程度-淡>の感覚ワールドがまるごと響くようになる。
これを存在論的に言い表すと、次のようになる。
<物理像-エーテル像-マインド像(低いアストラル像)-超アストラル像>

ある部屋で、Pさんが、A、B、Cの3人のギャラリーの前でスプーンを曲げる、
それを動画で撮影する、ということが行われているとする。
このとき、Pさん、A、B、Cさん、撮影者のそれぞれが感じている感覚は、
①P―ギャラリーを前にスプーンを曲げる感覚を感じている。
②A―Pさんが自分の正面でスプーンを曲げている感覚を感じている。
③B―Pさんが自分の左斜め前でスプーンを曲げている感覚を感じている。
④C―Pさんが自分の右斜め前でスプーンを曲げている感覚を感じている。
⑤撮影者―カメラの向こう側でPさんがスプーンを曲げている感覚を感じている。
あるいは、モニターの枠内でPさんがスプーンを曲げている感覚を感じている。
であって、①~⑤の感覚は全部異なっている。
この光景を動画で見る人は、画面の前でPさんがスプーンを曲げる視覚感覚を感じる。
この感覚は①~⑤のいずれとも異なり、また見る人によって異なる。
「私」が感覚を感じ、それを総合して世界像にしているという実感に沿えば、
①~⑤+視聴者それぞれはまったく別々の世界をそれぞれ構成している。
全員がそれぞれ異なる「私」視点なのであって、
「ある部屋で、Pさんが、A、B、Cの3人の前でスプーンを曲げる。それを動画に撮る」
などという、三人称で書かれた小説の作者のような視点はありえない。
「ある部屋で、Pさんが~」は、濃い感覚(物体像)としてはどこにも存在せず、
中程度の感覚で起きている思考である。
しかしその思考も、厳密にはそれぞれちがっているだろうし、
感情が組み合わされば、そのちがいはもっと大きくなるだろう。
言葉や図などを拠りどころとして描かれる三人称視点の世界は「合意現実」だが、
その合意も本当に合意しているのかどうか確認できないし、はなはだアヤしい。

筆者がスプーン曲げの実演を見ているとする。
私がPさんのスプーン曲げを見ているのは<感覚>だが、
Pさんがいる、スプーンがある、床がある、自分の身体がある、というのは、
<思考>で「もし客体として物体があるとすると」と仮定して情報処理した結果で、
そんな三人称世界は「(濃い感覚で)感じられて」はいない。
いる、ある、というのは「もしも」という仮定条件のうえで成立する思考事実、
濃い感覚を直接の一次事実とすれば、虚構である。
思考も感じられる感覚のひとつだが、濃い感覚とはレイヤー(層)が異なる。

物があるからそれを感じる、と「考える」のは思考の働きで、直覚ではない。
身体の感覚器でそれを感じ、それを脳が機能して像にするという「考え」は、
教わった、言葉で表された知識を組み立てて編集した思考で、ますます直覚ではない。
直覚、すなわち直接ダイレクトにわかることは、
「私」と言い表される当事者意識がさまざまな感覚を感じている、これだけである。
手を伸ばすと壁にぶつかるのは、そこで行き止まりのような圧力感を感じるからで、
この種の圧力感に視覚的広がりを加えた感じを「壁」と呼んでいるのである。
それは感じるより先に壁と呼ばれる物体がある証拠にはならない。
しかし、物があるからそれを感じる、という「考え」がいかにも直覚っぽく、自然で素直で、
「私」が感じている感覚が云々などどいう話は詭弁だという気がしてしまうのは、
物体像を構成する濃い感覚が、非常に強烈だからだ。
見る、聞く、さわる、痛みがある、などの感覚は、
思考や感情よりはるかに刺激が強く、烈しく、濃厚である。
見ると聞くは異なる、圧力感と痛みは異なる、
また赤は青と区別され、「あ」の音声は「お」の音声と区別される、というように、
質的な段差、コントラストもはっきりしている。
この強さ、濃厚さが、「物体がある」という思考上の仮定に本当っぽさを与えている。
思考上で「濃い感覚の向こう側には物体がある」と仮定している人が、
濃い感覚をフル稼動させる立体動画を見たとしても、最初から動画とわかっていれば、
立体映像の向こう側に物体があるとは思わないだろう。
しかし、動画とも、劇場であることも知らずに、はっと気がついたらそこにいたとすると、
動画であることには気がつかないだろう。
さらに、見ている人が、「私の感知の有無に関係なく、物体はそれ自身の法則で
配置されている」(空間思考)、「物体は不可逆に生成変化する」(時間思考)と、
思考上で仮定していれば、
立体で出現している建物には内部があると思うだろうし、
過ぎ去った立体場面は実在していたと思うだろう。

さて、ここからオカルトに架橋します。

では、物体像や身体の「内部」像を構成するその濃い感覚が、
そこまで濃くはなく、中程度の感覚にやや近く、コントラストももっと緩かったら、
どうなるだろう。
中濃感覚(エーテル像)がわかる人は、その質感を少し強調した、準エーテル像と
思っていただくとよい。
視覚像には透明感があり、輪郭は少し融けかけて光を放っている。
圧力感には弾性があり、
痛みは指圧感程度。
味も匂いも、突出した刺激はなく、ブレンド感がわかるような広がりがある。
聴こえてくる全部の音にエコーがかかっている。
というか、全感覚にエコーがかかっているといってもよい。
視覚像の輪郭が放つ光は、視覚のエコーである。
中程度の感覚である思考や感情は、綿や蒸気くらいには実体的で、
微妙な感覚である直感や直観イメージは、思考や感情くらいにはっきりしている。

中濃感覚にちょっとアクセントをつけただけ、みたいな、この準エーテル的世界では、
濃い感覚の向こうに物体があると「思考」させるほど強烈ではない。
言い換えると、
濃い感覚を当事者として感じている意識である「私」を圧倒して、霞ませ、
見えてさわれる手足や胴体(身体像)に同一化させて眠り込ませてしまえるほど、
強烈ではない。
「私」は身体像に憑依されておらず、
<濃-中濃-中程度-淡>の全感覚を感じる明確な軸である。
全感覚が響き合うこの世界は、
ソリッドな(固体的な)世界をマイルドに延長しただけにとどまらない、
まったく様相の異なるものになるだろう。

これが次元上昇によって現れることである。

スピリチュアル業界で「地球とともに」「宇宙とともに」アセンション、と言われているのは、
私のメタフィジクスでいうと「物質波がZero Point Fieldに還る速度が上がって、
振幅(振動の中心位置から測った変動幅)が下がる。なので濃い感覚は強烈でなくなる」
ということです。
地球とか宇宙というのは、濃い感覚の物々しさを、思考で存在論的に表現したときの
言いかただから。

なお、松村潔(まつむら きよし)氏の『エーテル体に目覚める本』(アールズ出版/2011年
発行)には、「(古代)エジプト時代までは多くの人がエーテル体を認識していた。
ギリシャ時代から、光より速度の遅いものだけが存在するという合意現実ができた」
という主旨のことが書いてあります。
出典は忘れたけど、シュタイナーも同様のことを書いている。
エジプト時代とかギリシャ時代とかは、微妙な感覚で入ってくる情報に当てられた表現で、
客体‐空間‐時間思考を前提とする物体史上の区分のことではありません。
著者自身が、「古代というのは古い時代の消えたものではなく、わたしたちの意識の
振動密度から少し異なる領域では今でもつづいていると考えてみるとよい。
つまり時間は地層のようになって、同時に存在しているのだ」と書いている。
つまり、次元上昇後の世界、濃い感覚がさほど濃くなかった世界は、
微妙な感覚として既にある、「地球」的には初出じゃないということです。
ただし、既出の準エーテル世界は、そこから準エーテル感覚が物々しく濃くなっていく、
次元下降の過程で出現したものだから、流れは逆です。
テレビの情報番組などで、地下に部屋がたくさんある地下都市文明が紹介されることが
ありますが、私は、あれも準エーテル世界だったんじゃないか? と思っています。
「こんな暗いなかで、光源はどうしていたの? 栄養不足にならないか?」
ということが問題になり、現代に知られていないテクノロジー云々の話になっていくけど、
そもそも感覚が物主体じゃなければ、高度なテクノロジーを想定しなくてもいいわけで、
客体思考で表現すると「身体組成が環境に適応してできていた」可能性もあります。
  1. 2018/09/10(月) 16:41:25|
  2. 仮想集合システム
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みけ@猫科ホールディングス

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イタリアの美少年のような女(豹専務)
と同居してるGID
(ジェンダー・アイデンティティ・ディスオーダー)。
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