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ソロ・パブリッシュ

エア充。

現実を変えず、現実ごと跳ぶ

2018.12.14(金)

1.クラシック

地球と呼ばれる、ほぼ球形の物理像だと合意認知されているこの世界の住人、
すなわち地球人の伝統的な精神世界では、
物理的な出来事を物理像だと見抜けばアガリとされてきたように思う。
これだと、感覚の向こうに物体がある、その物体が広がり、変化している、
「私」も物体の一部、それぞれ「私」である人みな物体の一部、という、
客体‐空間‐時間思考システム(仮想集合システム)はそのままで、
「私」を物体に属する身体と身体にもとづく心に閉じ込め、
「私」の作用範囲(=能力)を物理像とマインドに制限した状態も継続する。
人生(時間思考)と社会(空間思考)のマボロシ性はわかるが、
どちらも悟る前と変わらず、結果、
思考システムの管理下にある物理像+マインド世界は、
魂のステイタスを上げるための修練所となる。
物理像+マインド世界にぐずぐず居座ってはならず、かといって逃げてもだめで、
課題をきちんとやり遂げて単位をとり、「卒業」しなければならない。

2.モダン~むかしはひみつの教えだったことがカジュアルダウン

近世紀になって、
高次の量子跳躍パワー(直感とか閃きとかの微妙な感覚)を使って、
人生(時間思考)と社会(空間思考)を泳いでいくゲームのエンジョイ度を上げよう、
という流派が出てくる。
引き寄せの法則を使ったり、ヒーリングで潜在観念をはずしたりして、
ゲームとわかったうえで楽しくプレイしよう、3D充しようぜイェー、みたいな。
修練コンセプトよりはずいぶん前向きになったっぽいけど、
客体‐空間‐時間思考システムそのものは、何も変わっておらず、
人生という時間思考、社会という空間思考もそのまま引き継がれている。
高次パワーを人生‐社会のゲームに活用するということは、
思考システムの側に合わせて高次パワーを導入するという妥協である。
宿題が、漢字ドリル1冊分から漢字ドリルか作文かの二択になっても、
宿題があること自体は変わらないのと同じ。
それに、この妥協案だと、
思考システム仕様の「私」(物体ベースの身体+身体にもとづく心と定義された「私」、
身体から漫画の内声フキダシが出てるみたいな「私」)と、
全感覚の軸である本来の「私」が別々なり、
思考システム下の「私」が恐怖や被害妄想にかられて暴走しないよう、
本来の「私」が監視していないといけないという、奇っ怪なことが起こる。
スピリチュアル界では前者はエゴ、後者はハイヤーセルフと呼ばれ、
「ハイヤーセルフがあなたに代わって人生を生きてくれるわけではない」
などという、なんだかわけのわからぬフレーズが成立、通用してしまうのである。
このフレーズは1.2.のモデル下に限り適切である。
1.2.のモデル下では、
思考システム下にいる身体+内声フキダシの「私」と、
思考システムがあるマインドを超えた高次の軸である「私」に分離するからだ。

でもほんとのところ、人間の「私」とは、
視覚や触覚などの濃い感覚(物理像)を感じ、
その濃い感覚を「白い」「まるい」「柔らかい」といった中程度の感覚(マインド)で
概念化してとらえているハイヤーセルフのことである。
どのレイヤー(層:次元)の当事者意識もセルフであって、
n次元の「私」とかハイヤーセルフがカタマリとして存在しているわけではない。
人間の「私」から客体‐空間‐時間思考システムをはずせば、セルフは一本化する。


3.コンテンポラリー

筆者には、クラシックなスタイルはつらすぎてムリです。
魂の成長のために何十年かの人生を生きとおすなんて、
入力してるだけでアルクトゥルスへ帰りたくなります。
小一のとき、校庭の角で、義務教育の長さを思って気が遠くなったのを思い出します。
また、モダンなスタイルだと人生‐社会の枠に収まる絵しか描けず、
つまらない、もの足りないと感じます。
私はわがままなので、漢字ドリルも作文もイヤ、ラジオ体操も出たくない、
林間・臨海学校にも子ども会の旅行にも参加せず、
アニメを見たり、ノートに漫画を描いたり、講談社刊の『四次元の世界を探る』を読んだり、
独りでできる運動(壁打ちテニスなど)をしたりして、ずっと遊んでいたいのです。
宿題という宿題は一切やりたくない。ならば、
どう工夫しても宿題すなわち制限が発生する客体‐空間‐時間思考システムから
出なければなりません。

「私」に先んじて物体がある、だから「私」は物体製だ、それぞれの「私」も物体製だ、
誰にとっても物体は一律に広がり、一律に変化する、
というこの客体‐空間‐時間思考システムは、思考のシステムだから、
マインドに仕掛けられている。
つまりそういう考えかたが暗黙の常識して心のなかに根づいている。

濃い感覚すなわち物理像では、問題は発生しない。
ここは中程度の感覚(マインド)と相似形の感覚世界に跳んでいるだけだ。
設計図どおりに製品をつくっているようなものである。
微妙な感覚すなわち高次でも、問題は発生しない。
ここはわくわくやぞくぞくのもとになる信号を感じて、
わくわくしたりぞくぞくしたりするマインドを呼び出しているだけだ。
しかしマインドは、もし思考システムにハマっていれば、
高次からの呼びかけを思考システムで分析して、
抑え込むか、もしくは優先順位を常に最後に回し、
「私」ではなく思考システムのニーズを最優先する行動フローチャートをつくる。
思考システムのニーズとは、
①「私」の観察即創造主としての能力を封印したまま、できる限り延命させる
②この思考システムを次世代に継承させ、維持していく
なので、マインドは①②の課題のクリアのことで一杯一杯になり、
一杯一杯な「感じ(周波数)」と相似形の物理像を呼び出す。
すべての問題はマインドで起きる。
マインドがマインドにある思考システムにコントロールされなくなれば、
「私」は回復し、宇宙も回復する。


マインドがマインド自体をコントロールしている、
セルフマインドコントロールから脱するには、
マインドの明度をモニタリングすることである。
本来の、コントロールされていないマインドは、わくわくしていたり、
くつろいで湧き上がるように充足しているのが通常(ネガティブが通常化していた
地球人にはポジティブだけど、ほんとはこれが中立)なので、
翳っていたり、濁っていたりしたら、
その翳り、濁りの「感じ(周波数)」をZero Point Fieldに還す(※方法は文末)。

マインドの明度が上がれば(もとに戻れば)、
明度の上がったマインドが、明度の高い物理像を呼び出す。
なので、物理像には手をつけない。
どころか、物理像の修正を目標におくこと自体を放棄しないと的をはずしてしまう。
現実を変えよう、
現実を変える「ために」マインドの暗い周波数を手放そう、とすると、
現実を変えるという発想がすでに、
「現実は物体製で一律の空間、時間しばりがあるから、人の意思では変えられない。
→ありきたりのアプローチでは変えられないから、一発、スピなチート技を使ってみる」
と、客体‐空間‐時間思考システム前提になってしまっていて、
そこで思考システムを再適用してしまうからである。
目標はマインドで起きているねじれをもとに戻すこと、
ねじれをもとに戻して全感覚(全次元)の流れをスムーズにする(コヒーレントにする)
ことであって、
物理像は放っといていい。

ネガティブな現状をネガティブと判断しているのはマインド、
判断にもとづいて凹んでいるのもマインドで、
物理像は形とか色とか音声とかの濃い感覚の集まりにすぎない。
ある濃い感覚の束を感じて、マインドの明度が下げるとすれば、
その濃い感覚の束は、
明度の低いマインドの下で思考システムが作動していることを知らせてくれている。
そしたら、客体(物体)思考や空間思考や時間思考にもとづいている
その低明度の考えや気持ちをZPFに還せばいいわけで、
濃い感覚(物理像)は、マインドのねじれを知らせてくれる指標として使えばよく、
一箇所も直さなくていいのである。
むしろ、ピンチはセルフマインドコントロールを解くチャンス。
現状に手をつけずにマインドの明度を上げることができるようになると、
がんばりを要求する仕事が発注者の都合で流れるとか、
苦手だった人が異動する、あるいはなぜか態度が一変するとか、
外側が勝手に変わっていくようになる。
自分は動かず、あれれれ?って感じで景色のほうがさし替わっていく。

これは、現実を変えないという点で、クラシックなスタイルに似ているようだけど、
クラシックなスタイルとちがって現実を巻き込む。
現実を卒業すべき通過点として切り離すのではなく、
現実ごとまるごと第4密度に上昇するのだ。


※マインドに生じた違和感をZPFに還す方法(筆者の場合)
(1)空中にZPFに通じる窓をイメージする
(2)やばい、ぴりぴり、モヤモヤ、がっかり、グッタリ、などの「感じ」を、
ガチャガチャみたいな透明なカプセルに封入する(「感じ」を言語化したり、
「幼少期のトラウマが~」といったように根本原因を突き止めなくても、
「感じ」として感覚的にとらえられればよい)
(3)鳥を放すように窓から放す
以上、慣れれば1秒もかかりません。
たとえば、目の前に落ち込んでいる人がいた場合、その人をアゲようとせず、
その人の落ち込みでグッタリした自分のグッタリをZPFに還します。
これはZPFとの回路が開いていることが前提のイメージワークなので、
ZPFってなに? とか、つながりかたがわからない方は、
ブログ右の『ようこそ☆ゼロポイントフィールドへ』を参考にしてください。
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  1. 2018/12/14(金) 18:07:48|
  2. 仮想集合システム
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ほんとは誰もが知っていること

2018.12.7(金)

客体‐空間‐時間思考システム、またの名を仮想集合システム、
これが何であるかということは何度も書きました。
が、この字面を見るたびに、なんだかムズそうに思えたり、
文字を追っているときは理解していても、クリックないしタップして別のコンテンツに
飛んだとたん、ケムに巻かれたような気持ちになる、かもしれないので、
しつこく何度でも書きますよ。

客体‐空間‐時間思考システムというこのめんどくさい(入力もめんどい)これは、
「私」より先に物体がある、誰も彼も何もかも物体でできている、
だから「私」は物体、みんな物体、
だから「私」もみんなも物体の広がりかた(空間)や変化(時間)にしたがう、
という当たり前な世界観のことです。
当たり前とはいっても、それは広く共有されているというだけで、
ひとつの考えかたにすぎないのに、これが絶対と思い込まれてるから、
これがデフォルト(暗黙指定)という意味で「思考のシステム」と呼んでいるわけ。

このシステムからはずれると、世界は物体、みんな物体、ではなく、
世界を意識の濃淡のグラデーションとしてとらえるようになります。
私的にいうと、
いちばん濃い感覚(物理像)から中くらいの感覚(マインド)、微妙な感覚(高次)に至る、
「感じ(周波数)」の階梯です。
この全感覚を感じて、感じることで出現させている中心意識が「私」です。
さらに、高次を感じる「私」は、
なんにもないのになんにもないがゆえに全部ある感じがする空感覚(Zero Point Field)
へと突き抜けていて、感じ手である「私」もZPFに融けてしまいます。

システムからはずれるということを実感的にいえば、
人生(時間思考)も社会(空間思考)もなくなるということです。
人生という時間思考がコード化していた経験記憶、過去‐未来世記憶、
社会という空間思考がコード化していた対人関係、行動規範、
不特定多数(ザ・みんな)に「あなた、居ていいですよ」と承認してもらうための、
自分がみんなに「役立つ、使える人」であることを証明する活動、
そうした、「私」をがんじがらめにしていたキマリが全部プレイだったとわかる。
その結果、これができたら一人前という宿題も消えるので、
「私」がわくわくすることを、わくわくに乗って形にする「自由研究」だけになります。
人生も生活も社会もない、宇宙規模の「自由研究」だけです。

わくわく、ぞくぞく、どきどき、なになに? なぜなぜ?
といった「感じ」は、高次波動がマインドに降りてやや具体的になった形です。
客体‐空間‐時間思考システムはマインドに仕掛けられている思考工作物なので、
工作物がはずれると、
「私」はダイレクトにこれを感じて、
相似形の物理像を呼び出す、あるいは相似形の物理像に跳びます(どちらも同じ)。
最初のうちは、時差ぼけみたいな感じでシステムぼけしてるので、
わくわくする→宇宙を信頼する→コミットメント(決心)→行動する、
といったタメがあるんですが、
慣れてくるとタメてられなくなって、
行動するんじゃなくて、行動が起きるとか流れに乗るという感じになります。
わくわくの濃い感覚への跳躍(物理像化)は、システム下の時間思考にしたがわないので、
人生とか生活のスケジュールでは測れず、ランダムに開花しますが、
大事なのは恒常的にわくわくマインドでいることで、結果はどうでもいいんです。
結果を気にしはじめると、結果を気にかけること自体が時間思考なので、
たちまちまたシステムにハマってしまいます。
恒常的にわくわくマインドでいるということは、ランダム実現がスタンダードになることです。

ところで、
客体‐空間‐時間思考システムにもとづく、みんな物体で一蓮托生の世界のことを、
3次元とか、第3密度とか、3次元密度とか呼ぶ人もいます。
どれもいっしょで、制限つきの世界です。
何を制限しているのかというと、煎じ詰めれば「私」の能力を制限している。
「私」には、どんな次元のどんな感覚も感じて出現させる能力があるのですが、
その能力を仮想された物体の法則が及ぶ範囲内に抑え、
人生とか社会といった概念に収まるようにしているのです。
わくわくにしたがった自由研究ができると気づかせないために、
漢字の書きとり100回とか、計算ドリル10ページとか、その手の宿題をたえず与えておく。

マインドにこんな珍妙な思考システムが仕掛けられたいきさつについては、諸説あります。
すごくレアな制限世界を体験するため自ら工作した、つまりこれ自体が自由研究だった説、
ネガティブなentityにハメられた説、
以後、ネガティブなentityと結託した秘密組織がメンテナンスしてる説、
entityの実験プロジェクト説、
entityによって実験的に楽園としてつくられたが混乱して波動が下がった説、などなど。
ちなみに筆者は4番目の説をとっています(電子本『Starry Souls』で詳述)。
微妙な感覚(高次)ワールドには、特定の場所(空間)も特定の順番(時間)もなく、
そこで受けとった感覚をマインドでどんなコンテンツに翻案して組み立てるかは、
それぞれの「私」次第なので、
これらについて、どれが正しいとか誰が本物か、といった議論をするのは不毛です。

しかし、私の知る限り「自然に進化発展してそうなりました」という話は聞いたことがない。
つまり、どんな説にせよ、制限つきの世界はおかしい、作為的だと感じている。
ここが共通項です。

微妙な感覚信号で受けとった感じをこういう創世話にまとめる人じゃなくても、
じつは誰でも、「“私”は物体、みんな物体、全員物体の法則にしたがう」なんてことを、
本当は得心していません。
たしかにそれが経験や自然科学が教える常識だけれども、
どこかおかしいと直観しているから、
漠然と魂があるとか、故人が千の風になることはあっても無になることはないとか、
胸の中心のへんに心があるとか、思っている。
物質還元思考の人からすると、そういうのは、
「死(=無)を直視できない人間の弱さ」「変わらないもの、恒久的なものへの願望」
から想像されることになるのですが、
これはむしろ徹底して物質還元思考に沿わないと出てこない見解で、
そんな弱さを露呈したり、恒久的なものへの願望を抱くほど、
人間はきちんと絶望してはいないのです。
「死を直視できない」ためには、
「宿題があるとわかっていながら手をつけずに放置して遊ぶ」ときと同じように、
やがて来る状態(死)を知っていて、それから目をそらしていないといけないのですが、
生きていると死は当事者として体験できないので、
目をそらせるほどその状態(死)を知りません。
よろず未知のことは怖い、死も未知だから怖いという気持ちと、
物質還元思考の人が他者の死から推理した「たぶん永眠=無」という見解の間を
揺れ動き、
親しい人やペットが亡くなると、その身体像の不在から物質還元思考に傾いて嘆き、
かと思うと、しばらくして彼らの霊魂に思いを馳せる、という形で揺れ動きしながら、
よくわからないけどイヤだな、死にたくないな、と思っているだけです。
同じように、死から恒久的なものを願えるほど、人間は死を知ってはいないし、
(一部の哲学チックなセンスがある人を除いて)突き詰めてみる気もありません。

漠然と魂があるとか、身体に収まりきらない何かがあるという感じは、
物体としての身体の機能が停止することからの逃避とか、
そんな冷静な論理から出た心理ではなくて、
すべては物体のメカニズムから生滅するという大常識への根拠のない違和感、
「それはそうだけど、なんかちがう」という腑に落ちなさ、
知識や経験の積み重ねでは払拭できない直観です。

おもしろいことに、思考システムを超える帯域のことを、
スピリチュアル界では「高い次元」として上に見立てますが、
心理学や精神分析では「潜在意識」「無意識」として下に仮定しています。
これはどちらも同じで、高次元とは底のことです。
空(くう)→高次→マインドと浮上していくにつれ覚醒度が下がり、瞼が下がっていって、
表に出ている物理像が最も爆睡してます。

誰しも、意識の底の底では制限がウソだと知っている。

ならば、その違和感を正直に突き詰めていけば、
「私」にかかった縛りは解ける、
「私」は観察即創造する中心意識で、その可能性は無窮だとわかります。
自作自演であれentityのせいであれ、その由来がどうであっても、
制限は自分のマインドにかかってるのだから、自分ではずせるし、
また自分がはずすしかないわけです。
が、客体‐空間‐時間思考システムは、
まさにこの思考システムから出力される思考であるザ・みんなの同意を得ているので、
自分も同意しないとヘンな人だとハブられて社会生活に支障をきたし、
社会生活に支障をきたすと生計や心身の健康に支障をきたす危険性もあるので、
なかなか抜けられない。
しかしこういうのはどれもこれもマインドから出た思考ですから、
「嫌われてもいい」「ぼっちウェルカム」「愛と勇気だけが友だちさ」
と他者視線をクリアできると、案外するするイケます。
もとから保証されてる不動の信用とちがって、
他人の信用は、自分のマインドと物理像が出現させている他人像が盛ったもの、
煎じ詰めれば自作自演の産物ですから、失ったところでどうってことありません。

あと、
スピ先生やライトワーク的なことをやっておられる方のなかにも、
「3次元は魂を成長させる学びの世界」とか、
「スピリチュアルを(システムを適用したままの)現実の生活に役立てる」とか、
地面に着地したままジャンプする、みたいなことをおっしゃってる方がいますが、
前にも書きましたが、
客体‐空間‐時間思考システムを上手に活用しながら本来の「私」に戻るって、
できないんですよ。
「私」もみんなも物体で物体のメカニズムにしたがうっていうこのシステムが、
その本来の「私」に戻るのを止めてるんですから。
こういう方たちこそ、まっ先に自由研究に突入していただきたいものです。
ついでに私の知る限り、
人間型存在の次元下降のギリって、ふつうは第4密度あるいは4次元、4次元密度で、
濃い感覚(物理像)は感じてるけど、上次元からの信号は何の制約もなしにダダ降り、
場所(空間)も順番(時間)も「私」の感じかた次第で、
地球人みたくセルフマインドコントロールしている事例はまじ特殊です。
地球と呼ばれる形態に視覚化されたこの世界で、
自分は非不思議系の常識人だと思ってる人は、みんな特殊能力者です。
それをどうとらえるかは趣味の問題で、
もし学びの場だとしても、義務教育ではなく、
むしろなんかハードコアな(?)専門学校とか、特殊部隊員の養成所って感じでしょうか。
私的には体験型テーマパークです。
  1. 2018/12/07(金) 16:37:40|
  2. 仮想集合システム
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思考にじゃまされない情報の受けとりかた

2018.11.8(木)

前回の記事のつづきです。

引き寄せの法則にしろ周波数を上げる方法にしろ、テーマは何であっても、
デムパチックな話というのは、
思考で情報処理していると、思考の根拠になっている常識の範囲内の場面しか
呼び出せず、常識を超える出来事は何も起きません。
(本当は、呼び出せる場面を常識にもとづかせている、常識の範囲内に抑えて
いることのほうがイレギュラーで非常識なのですが。)

「私」の感じたことはそのまま実現します。観察即創造。
これが、バシャール本などに書いてある「自分の与えるものが自分に返ってくる」
ということです。
なので、「“私”とは物体でできた身体と、身体の反応から生まれる思いのことだ。
身体も、身体の反応から生じる思いも、究極には物体の法則にしたがう」
「“私”に先んじてまず物体がある。“私”もほかの人もその物体でできていて、
みんな物体の法則にしたがう」
と思い込んでいれば、当然、その定義に適う結果が出てきます。
引き寄せだの周波数を上げるだのよりこっちの思い込みのほうが強力なんで
(というのは思い込みであることに気がついていないからですが)、
引き寄せの法則を使ったり周波数を上げたりする以前に、
思い込みに適う結果を引き寄せ、思い込み世界の周波数に固定されてしまいます。

では、人の話を聞いたり、動画、本、ネットの記事などのコンテンツに接したとき、
どうすれば思考にじゃまされずに受けとれるのかというと、
①言葉の意味を追わない、②突っ込みを入れない、
というのがコツです。
人の話は、傾聴しながらも、BGMを聞くくらいの距離を保って聞き流す、
人の文章は、それに集中しながらも、読み解かずに絵を眺めるようにして眺める。

傾聴する、集中するというのは、ラジオの周波数を合わせるようにして、
受信するという態勢で関心を向けておくこと。
はじめから気が散っていたり、批評しようという構えがあると、
それはもう思考が動きだしてるってことだから、読み聞きしてもムダ、
仕切り直したほうがよいです。

①②のようにして、全体として「ふうん」とか「へー」くらいの平熱さ加減でいれば、
必要な情報は前のめりにならなくても入ってきます。
それはキーワードやキーフレーズかもしれないし、
言葉じゃなくて、話者の声とか動作、背景の景色かもしれません。

そうやって受けとられた情報は、全部、自分バージョンです。
どんな情報も、自分バージョンでしか受けとれません。
たとえば、私がどなたかが制作された記事や動画を見たとして、
私が読んだり見たりしているコンテンツは、
制作者にとってのコンテンツとは、まるで別ものです。
コンテンツを制作するという行為は、制作者の「私」を軸とする宇宙で起きたこと、
コンテンツを見るという行為は、私の「私」宇宙で起きたこと、
両者は宇宙まるごとちがっています。ことによると、
よほど微妙な微妙な感覚ゾーン(高い高い次元)とかワンネスまで遡らない限り、
袖も擦り合わないかもしれません。

それでも、①②の要領で、思考でフィルターにかけたりブロックしたりしていなければ、
私は、自分の宇宙に出現したコンテンツから、
自分バージョンの有用な情報を受けとることができます。

これはデムパチックな話に限らず、本当はどんな分野の情報でもそうなのですが、
客体‐空間‐時間思考システム(仮想集合システム:「私」に先んじて物体があり、
「私」も誰も彼も物体でできていて、物体の法則にしたがう、という考え)を適用していると、
「誰にとっても同じ事実」が存在することになるので、
その誰にとっても同じ事実をそのまま映像や音声や文字にした情報が客観情報だと
されます。
しかし、たとえば、ある事件現場に当事者としてかかわっている人、
その現場を撮影している人、
撮影された映像をテレビやPCやケータイなどの画面で見ている人、
三者の世界はまったく、赤裸々にちがうので、本当は客観情報など存在しません。
ただ、この事件現場の光景は誰にとっても同じように見聞きされるはずだと、
上記のシステム搭載の思考で了解しているだけです。
客観事実がある、それを写した客観情報がある、ということは、
「みんないっしょ」の仮想集合システムが有効になっている世界の、
いわばゲームのルールです。

しかし、見える世界も見えない世界も一貫して「私」が感じて出現させているとわかると、
当然、どんな情報も自分の「私」が感じて出現させた、自分バージョンになります。
デムパ動画を見たり、デムパ話を読み聞きしていても、
システム搭載の思考で受けとっていると、みんないっしょルールも甦ってきて、
誰にとっても当てはまるしくみ、
誰にとっても有効な方法があるかのように思えたり、
客観的なチャネリング情報とかいう語義矛盾するような情報を探してしまったりしますが、
そんなものないんですよ。
引き寄せの法則とかをがんがん使って、物質的な豊かさを追究しながら自分の宇宙を
開発していく人もいるし、
断捨離して、余計なものが一切ない、機能美を追究した宇宙を求める人もいる。
対人サービスや、大勢の人の前で実演することが全体貢献になる人もいれば、
引きこもって何かオタクな作業に専心することが全体貢献になる人もいる。
ある先生の個人セッションとかセミナーを受けて生活が一変した人もいれば、
同じセッションを受けてもとくに何も変わらない人もいる。
10人中9人が不運や不幸のカタログみたいだと思うようなその人が、
本人的には毎瞬しあわせだったり。
仮想集合システムからはずれると、
正解はない、と同時に、正解しかないんです。正解があると思ってると混乱します。
これ、私的にはすごくおもしろいし、わくわくする。
  1. 2018/11/08(木) 17:15:23|
  2. 仮想集合システム
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「私」のすごい能力

2018.11.2(金)

「思考のドラマ」という記事(2018.10.19/カテゴリ:仮想集合システム)の文末に、
ヒーラーmomoyoさんの動画をURLリンクの形で紹介させていただきました。
   ↓
<momoyoチャンネル>より「思考を止めるだけで不思議な事が起こる?!」
https://www.youtube.com/watch?v=EuvcWdnAEuE
この動画の最初のほうで、momoyoさんは、
「スピリチュアル分野のマスターやヒーラーが言っている引き寄せの法則などの話を、
思考で真に受けていると、たぶん何も起きない」
とおっしゃっています。
私は「そうだよね」と納得しながらも、でもなぜ? と、ずっと引っかかっていて、
①「思考で受けとめる」ってどういうこと?
②思考で受けとめていると、どうして何も起きないんだろう?
という質問を、自分の宇宙に投げていました。
と、ガイドエンティティーズから次のような答が返ってきました。

<①について>
ヒーラーやマスターが伝えているのは微妙な感覚、すなわち高次の波動です。
ただし、高次の波動は、伝達のために思考(論理素子:論理をつくるもと)を使い、
その思考に対応する言葉や絵図などに変換されて情報化します。
このとき、もとの高次の波動‐思考‐言葉や絵図などの象徴記号はコヒーレントで
(一貫しており)、ブレていません。

しかし、この情報に接した受け手は、
一般的には言葉や絵図などをマインドで読み聞きします。
マインドで読み聞きするとは、考え、記憶、経験知、メディアからの情報、
それらにともなう感情や気分などを自動サーチして、
言葉や絵図などに意味をつけ、解釈することです。
すると、おおもとの高次の波動からは、かなりズレた情報として受けとられます。

といっても、「犬」という言葉から猫を思い浮かべるほどのズレはまれなのですが、
「犬」とはあの犬のことだという一義的な意味だけでなく、
言語下でじつに多くの考え、記憶、感情その他のマインドが動員されるので、
ソース(もとの高次の波動)とはおよそ別物の仕上がりになるわけです。

<②について>
マインドの自動サーチ機能は、客体‐空間‐時間思考システム(仮想集合システム)に
支えられています。
このシステムは、思考をはじめとするマインドの処理手つづきを決めているメタ思考、
プログラムです。
なので、自動サーチによって出された答(マインドで読み聞きして理解した意味、解釈)
がプログラムからはずれることはありません。
客体‐空間‐時間思考システムとは、簡単にいうと、
「私」という観察視点に先んじて客体(一般的には物体)があり、
客体は一律に広がり(空間思考)、一律に生成変化する(時間思考)、
「私」はその客体の一部(身体と身体の生理反応にもとづく主観)にすぎない、
という考えです。
つまり世界は物体でできていて、「私」も物体であり物体の法則の制約を受ける、という、
一般的には当たり前すぎて意識に上ることもない大常識です。
よって、マインドで読み聞き、理解している限り、常識にはずれることは何も起きません。

ところで、マインドで、システムにもとづいて自動サーチしているのは誰か。
これは「私」です。ただし、システムの元締めの客体思考によって、
「私」は客体(物体)からできる、客体の一部にすぎないと思い込まされ、
「身体と身体にもとづく思い」にダウンサイジングされてしまった「私」です。
本来の「私」とは、数多の感覚を当事者として感じる視点のことで、
微妙な感覚(高次帯域)‐中程度の感覚(マインド)‐濃い感覚(物理像)、
この全帯域を貫き、全帯域を感じ(観察し)、感じることによって創造しています。
スピリチュアル用語でいうハイアーセルフがそれ。

この「私」という当事者視点はとてつもなく強力で、
感じることによって、その感じた対象を出現させる、だけでなく、
感じた対象の下位帯域にある相似形まで呼び出す能力があるんですよ。
これは、
①「私」が感じて出現した高次の波動は、それと相似形のマインドを呼び出し、
     ↓
②「私」が感じて出現したマインドは、それと相似形の物理像を呼び出し、
     ↓
③「私」が感じて、その物理像が出現する
ということで、
つまりは、「私」が感じるというその一瞥でもって、
世界をまるごとまるっと創造する、あるいは変える力をもっている。


「身体と身体にもとづく思い」にダウンサイジングされた「私」には、
そんな能力はありません。
「“私”は客体からできた、客体の一部です。なので客体の構造や変化を決めている
法則にしたがいます」
と思い込んでいるからです。
客体の構造や変化を決めている法則とは、一般的には自然科学の諸法則のことですが、
神学体系や、さまざまな世界説明神話である場合もあります。
なので、客体に属す身体である「私」が何を感じようと、
客体に属す身体にもとづく思いである「私」が何を思おうと、
「世界は客体(物体)からなる。客体は一律に広がり、生成変化する」
という大常識の範囲内でしか実現せず、大常識を破ることはできません。

「この仕事しんどいわー、サイアク」と思っても、
自身で予算や納期などの条件を責任者や発注者と交渉し、なんとかやり遂げ、
納品後に二度と同じ轍を踏まないよう対策を立てるとか、
自分が降板するなら交替者を見つけて引き継ぎをするとかしなければならない。
これが、大常識(システム)に載っている常識に沿った動きかただからです。
でも、「私」が、常識も大常識もただの思い込みだとわかっていれば、
「この仕事、おかしくないか? ムリでしょ」と思っても動かずに放っておくと、
先方から条件変更の申し入れがあったり、
案件そのものが中止になって、別の好条件の案件が舞い込んできたりと、
状況のほうが勝手に「私」にとって最適の方向へ動いていきます。
何が最適なのかは「私」によって、またケースによってちがうので、
もしかすると、とことん追い詰められて失業、でもそれが何らかの形でさいわいした
(心身の復調、別の仕事と出合う、など)という展開になるかもしれません。

ともかく、物理像局面で何があっても泰然自若として、直感にしたがって動く、と、
「私」が高次で(微妙な感覚で)感じたことが、マインドでも物理像でも実現する、
というのが特別なことでも奇蹟でもなく、ふつうになります。

その直感は、物理像で何があっても泰然としていないと、降りてこないんだよね。
大常識にもとづく常識にもとづく思考が右往左往して、直感を阻むからです。
泰然としているということは、
状況(物理像)を思考で解釈しないで中立に、感じたままに感じるということです。
「私」から大常識や常識にもとづく思考を剥がすことが、
泰然→直感→直感のままに動く→実現、という流れをつくるカギになります。
なお思考を剥がす方法については、下記の記事に書いています。
「思考を剥がすいくつかの方法」(2018.10.24/カテゴリ:仮想集合システム)

客体‐空間‐時間思考システムというのは、
「(じつは自分版の)みんながそう思ってる」という形で仕掛けられているので、
一度はずしても、
常識的な人や常識情報にとり囲まれていると、
環境圧から、またするっと元の木阿弥になることもあります。
しかも言語下に暗黙の了解として仕掛けられているんで、
その信じ込み度合も大きく、リアリティがある。
しかし、たとえごく些細なことでも、
泰然→直感→直感のままに動く→実現、という流れを何度か経験すると、
リアリティがシフトして、こっちがふつうだと実感できるようになります。
むしろシステムに沿って動くほうが特殊技能っぽいというか、
「私」をダウンサイジングしてたなんてすごいって、かつての自分をリスペクトしたり(笑)。
  1. 2018/11/02(金) 17:22:51|
  2. 仮想集合システム
  3. | トラックバック:0

有用な思考と無用な思考

2018.10.29(月)

思考は、よいものでもなければ、わるいものでもありません。

思考は「感じ」として感じればエネルギー的な塊ですが、
この塊はデータ処理されて具体的になったもので、
もとをただせば、
思考はデータ処理に使われる論理を構成する要素、論理素子のことです。
筋道のもと。四則計算の演算記号みたいなものです。

5+3=8

とすると、「+」とか「=」とかいうのが論理素子(厳密な意味での思考)、
「5」とか「8」とかが入力データ、
出力された「8」がエネルギー的な塊、
すなわち具体的になったあれこれの考えとか知識とか経験記憶です。
「+」も「=」も、ただの処理手つづきで、
よくもわるくもないし、特別な力をもっているわけでもありません。

エネルギー的な塊は、データを論理素子で処理した結果です。
論理素子もデータも処理結果のエネルギー的な塊も、全部「感じ」なんですが、
ちょっとした差があります(周波数がちがう)。

微妙な感覚で感じられる高次の信号の一部は、
この論理素子を使って、言葉になったりアイデアになったりと、マインドで具体化し、
それを「私」が感じれば、有用な思考になります。
有用な思考が有用になるのは、
高次帯域(微妙な感覚)‐マインド(中程度の感覚)‐物理像(濃い感覚)の波動(感じ)
が相似形になっていて、一貫している、コヒーレントな状態だからです。
デザイン、設計、製品のどの段階でもコンセプトが一貫していて、
高品質できれいな仕上がりになるのと同じ。
実感的は「キタ!」とか「そうそう、これ」とか、サクサク感だったりする。

有用な思考の特徴は、次の2点です。
①考えている時間(ダウンロード時間)が短い。
②実行するとき、環境やタイミングが整っている。


②は、連絡すべき人にすぐ連絡がついたり、タイトだった納期が伸びたり、
約束の時間に遅れそうだと思っていると、相手も前の用事が伸びていて、
お互いちょうどいい時間に会える、必要なお金が調達できる、などなど。
ちょっとした些細なことであっても、たとえば、
自分が発したひと言で相手が笑いだしたり、重かった空気が一変して和む、
というようなこともあります。

一方、無用な思考、見送っていい思考は、上記の逆で、
考えている時間が長く、行きつ戻りつしたり、迷走したりします。
その大半は、「未来の心配」と「過去の場面、経験の検索」に費やされます。
実行しようとすると、あちこち奔走したり、やりたくないことを我慢してやったりと、
楽しくない努力を要したり、努力はいらないけど退屈だったりします。

なぜ無用な思考が長くなり、実行環境が向かい風ないし無風モードになるかというと、
客体‐空間‐時間思考システム(仮想集合システム)に則ってデータ処理しているからです。
客体‐空間‐時間思考は、いろんな(無用の)思考をつくる論理素子の種類や順序を指示して
処理のしかたを決めているコマンドの集まり、プログラムです。
このシステムの目的は2つ。
(1)「私」を身体+身体にもとづく自己定義(「自分はこういう人」というセルフイメージ)に
閉じ込めておくこと(「“私”は観察者であるとともに創造者である」と気づかせないこと)。
(2)システムそのものを維持すること。
で、(1)の結果、自動的に次のようなゲームがはじまります。
a.身体+自己定義にダウンサイジングされた「私」が、「私」に先んじて存在する環境の
なかに投げ込まれる
   ↓
b.環境と戦ったり、環境を克服したりしてダウンサイジング版の「私」をメンテし延命させる
そして(2)の結果、自分がログアウトしない限り(ゲームだと気づけばログアウトできる)
ゲームはつづいていくしくみになっているので、
1つ山を越えても、次から次へと問題が発生し降りかかってきます。
問題が環境のどこからどのようにして降ってくるかは、ダウンサイジング版の「私」には
わからない。
したがって検索や推測に時間がかかり、パフォーマンスも大きくなるので疲れます。
そして、(2)の結果、ずっとゲームがつづいていくしくみなっているということは、
何かしら問題が発生するしくみになっているということなので、
実行環境が追い風になることはありません。

客体‐空間‐時間思考システムというのは、何度も書いていますが、
要約すると次のようなものです。
システムのおおもとになるのは客体思考で、
「私」という観察視点に先んじて客体(一般的には物体)がある、
まず客体(物体)ありき、世界は客体(物体)からできている、と考える。
その客体は独自の法則をもち(物理法則など)、
どこから見ても同じように一律に広がっていて(空間思考)、
一律に生成変化していく(時間思考)ことになっている。

したがって「私」というのは、客体の一部である身体とその生理反応に還元でき、
身体と、身体の生理反応を言語や絵図などの象徴記号で表した主観世界での自己定義
ということになります。
しかし、これはじつにけったいな考えかたです。
一般的な物体にせよ、化学物質にせよ、素粒子にせよ、
誰かがその人の「私」視点で「感じて」発見したから存在するのであり、
また別の誰かがその人の「私」視点でその情報を「感じて」信用するからこそ、
「何々という物質がある」と言えるのであって、
「私」視点の以前に客体として何かがある、などということはありえない。
そのありえないものから身体だの生理反応だのが生じて「私」になるとは、
それこそ錬金術的で、オカルトといっても過言ではないんじゃないか。

とはいえ、「“私”の観察がそのまま世界の創造である」というのを、
「“私”の前に世界があって、世界から“私”が生じる」と転倒させたことは、
鏡像的な180度逆転で、180度であるからこそ気づきにくいので、
よく思いついたなぁ、と感嘆させられます。

それでも、システムの根っこである客体思考にはムリがあるんで、
放っておいても、弾性がはたらいてもとに戻るみたいな感じで、
いずれは誰でも、
客体‐空間‐時間思考システムという大常識が思い込みだと気がつきます。
誕生して、成長して、老いて、死んで・・・あと幽霊になって、生まれ変わって、
過去世があり今世があり来世があり、といったループも、
システムを適用しているときの見えかたで、
輪廻なんてなかったんだ、と気づけば、輪廻はそこで終わりです。
輪廻なんてない。今ここに全世がある。
その「今ここ」という言葉にも時間思考と空間思考が織り込まれていて、
それは今ここですらない。とわかると、もう笑うしかない。爆笑です。
  1. 2018/10/29(月) 17:17:07|
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みけ@猫科ホールディングス

Author:みけ@猫科ホールディングス
イタリアの美少年のような女(豹専務)
と同居してるGID
(ジェンダー・アイデンティティ・ディスオーダー)。
人間(♀)仕様だが
中身は外来種(宇宙人)らしい。
血液型:みけ&豹専務とも超B型。
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