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ソロ・パブリッシュ

ドリーム。

ハスミン

2019.6.2(日)

ハスミンこと蓮實重彦さん(本来「蓮」と「彦」は旧字体)の本に、なぜか、
音楽を聴くようにしてハマっている。
映画でも本でも、どんなジャンルであれ、つまらん制作物やパフォーマンスを思いついたり、
つまらん制作物やパフォーマンスが流通する構図を、ハスミンは「凡庸」と呼ぶのだが、
時空を超えて繁茂しはびこる凡庸さに対して、キラリと輝く才能があるのではなく、
「凡庸vs.才能」というこの見かたこそが凡庸だとおっしゃる。
メマイを起こすような傑物は、このような対立図式なぞ思いつけないアホから生じると。
しかし、アホを精神とか魂とかの形而上領域に押し上げて神聖化し、聖俗の構図をつくるという
また別口の凡庸発想もあり、これまたベタでつまらん、
アホは放っておこう、放っておいてもアホはおもろいのだからそれでよろし、
じゃなくてさ、つまらんものはつまらんとハッキリ言おうじゃないか、
それがイタい黒歴史や勘ちがいの白歴史にもとづく物語に支えられてエバってるだけだって、
赤裸々に暴露してさしあげようじゃないか、
つまらんものをつまらんと言えなくしている、
さらには周到にもつまらんものをつまらんと気づかせなくしているこの空気、
これは空気じゃなく下心満載の臭気なんだってハッキリさせよう、
明日からといわず、今すぐできる換気のために。
・・・というのが、ハスミンのわくわくである。おそらく。
この方は、自分がアホじゃない、
アホはテンネンだから、なろうとしてなれるもんじゃない、
構図だのメカニズムだのが見えてしまうお利口な凡夫で、
凡庸さから逃れられないと知っている、と思う。
それならそれで、なんとも残念なお利口さを活かして、
つまらないものはつまらないと明言することも含め、
自称凡夫なりのおもしろどころを追究していっている。
その(謙虚さではなく)冷静さ、ではなく、貪欲さを、私はリスペクトする。
(それに誰であれ、知識や経験に拠っていると、お利口な凡人にさえなれない。
知識や経験に拠っていては、構図やメカニズムなどは見えないからだ。
知識や経験は、それが得られるプロセスがおもしろければよい。それ以上でも以下でもない。)
ただ、ハスミンが推すコンテンツを私はおもしろいと感じられないという趣味のちがいはある。
あと、どうでもいいことだけど、極私的には贔屓心が減点されてしまう項目として、
この人、骨の髄までつるんとノンケなんだなぁ、と思った。しかしほんとどうでもいい。
ミシェル・フーコーはゲイだったけどね。ロラン・バルトもね。それもどうでもいいが。

『表層批評宣言』(蓮實重彦/ちくま文庫)が書かれた1970年代の終わり、
つまらなさが蔓延していたらしい文芸業界には、
深みとか高み、あるいはあからさまに精神とか魂といった類の言葉で語られる、
「人間とは」的な抽象的な定義が活きていて、
そんなもの誰も知らず、
お利口な眼で見てみると、日本が戦争に敗けたとか共産主義革命の失敗色濃厚とか、
あるいは個人的な黒歴史に由来するトラウマの無自覚な粉飾決算でしかないのに、
その種の深みがあるとかないとかいうことが、
作品を評するさいのすごい権威のある評価基準になっていたらしい。
それはたぶん、「芸術」作品が存在するジャンル全般にあったのかもしれないが、
この本に出てくるさまざまな著作の著者の名前を見る限り、おじさんフレーバーがプンプンする
文芸業界は、とくにヒドかったのかもしれない。
そういう状況に「いいかげんにしろよ」と言うために、
「“人間”が、精神によって可視と不可視の超えがたい距離を一挙に踏破するというあの抽象的な
思考の産物ではなく、生まれたことによってまぎれもない死への可能性をはらんだ生なましい
存在であることは、ここで改めて指摘しなおすまでもあるまい」
「“人間”とは、(中略。うさんくさい精神とか魂とかを引き合いに出して不毛な議論を重ねるというような
空費をしない限り、といった意味の文章が書かれている)死という還元不能な事件を
はらみ続けることで、“制度”からの逸脱を生きうるもののはずである」
と、ハスミンは書く。
ぬ。
構図だのメカニズムだのが見えてしまうお利口な眼をもってしても、
「生まれたことによってまぎれもない死への可能性をはらんでいる」というのが抽象概念で、
ちっとも生々しくはなく、
「死という還元不能な事件」になど出合えない、出合えない以上、可能性としてはらみえない、
ということが、
つまり、人間が「生まれてきて、生きて、死ぬ」存在だという、これこそが抽象的な思考だと、
見抜けなかったとみえる。
でなければ形而上的な印籠に対する戦略的な配置? でも、後年に刊行された『凡庸さについて
お話させていただきます』(中央公論社/1986年)でも「人生」がどうとかって書いてあったから、
ガチで気づいてないのかも。
生々しいのは、文字を入力しているとか、洗濯をしているとか、コーヒーを飲んでいるとか、
そういったこと、
私の表現でいうと「五感的な濃い感覚」であって(「文字の入力」とかも厳密には抽象表現で、
実際には指が固いものにふれている、といったような感覚しかない)、
「生きる」とか「生きている」とかっていうのは、なんか人工的な感じのする「まとめ」で、
生々しくない。
この「まとめ」で得心できる人はそれでいいかもしれないけど、
私は全然得心できなくて、「生きる」とか「生きている」「生きかた」といった言葉に接するたび、
疑問符が生じたり、その場の用件を優先してこの疑問符をスルーしたり、
関野あやこさんの動画を見てるときだって、
「生きる」「生きかた」といった言葉がしょっちゅう出てくるから、
そのつど「これは物や出来事やマインドのとらえかた、視角のことを言っているのだな」
と翻訳しているのだ。
なので「改めて指摘しなおすまでもあるまい(トーゼンだよね)」と言われても困ります。
まして「死」なんて、いっぺんも死んだことがないからわからない。まじで。
他人や動物の生体機能停止という物理像になる五感的な濃い感覚を感じたところで、
それがそういう場面であり、何らかの感情が起きるとか起きないとかいう以外のことはわからず
(それ以外のことは生々しくない)、
これが「死」だとか、やがて自分にも訪れるとか、誰にも等しく訪れるとか、
抽象的すぎてクラクラするくらい、もう全然わからない。
五感的な濃い感覚を感じているとしても、これはエーテル感覚で、
ほんとは死んでるのかもしれないと思うこともあるし。それでもかまわないけど。
宇宙人などの異界ソウルの自覚がない人や、ナチュラルトランスじゃない人には、
私の書いていることが屁理屈に思えるかもしれませんが、この謎かげんはまじです。

ちなみに、文芸業界につまらなさが蔓延していたらしいその同じ時期に、
おモーさまこと萩尾望都さんは『トーマの心臓』(1974年)や『スター・レッド』(1978~79年)を
描いてるんだぜ。すごいだろ。
おフランスの男子校を舞台とした竹宮恵子さんの『風と木の詩』の連載開始が1976年、
フローベールどころじゃないよアンタ。

生きて死ぬ存在ということが、
ハスミンにとって人間の定義のうちで最も基本的で明解なものだとすれば、
それはこの人が1936年生まれで(4月29日生、牡牛座、一白水星、カバラナンバー7)、
『表層批評宣言』のあとがきのあとに載っている自筆年譜を見る限り、
苛烈な戦災を体験しているのではないらしいにせよ、
精神や大和魂や近代の超克ではどうにもならなかった戦争を通過してきているせいかな、
とも思う。
(一方、精神も大和魂も近代の超克も敗戦で終わったわけじゃねえぞ、って人もいて、
それは現場にいなかった人にもマインドデータとして受け継がれているみたいであるが、
そのへんは私にとってはどうでもいい。)
もちろん、これは本の文字列から私のマインド帯域に結ばれたハスミン像をめぐっての想像である。
しかし仮にハスミンが私のよく知る人であったとしても、像であることには変わりない。
他人を身体と心をもつ実体(客体)ととらえることは、
人の立場に立つとか人を思いやるといった利他心の基礎であると思われがちだが、
客体‐空間‐時間思考の枠内で身体や心といった体積のできた他人は、
同じく客体‐空間‐時間思考の枠内で体積をもった自分の操作対象になるのであり、
善意からであっても、必ず操作をめぐる問題を立ち上げる。

さて今日では、
「芸術」であろうとなかろうと、さまざまな制作物、パフォーマンスのつまらなさの豊饒化や
多様化に寄与する暗黙の評価基準は、
抽象的な精神や魂に通じる深みや高みの有無から、いつのまにか、
「人間を、生まれてきて、生きて、死ぬ存在として描けているかどうか」、
その日常尺として「食欲や性欲やそのほかさまざまな煩悩に揺らいだり振り回されたりする、
そういう生々しい存在として描けているかどうか」という、
フラットで即物的なものにすり替わっているように思う。
さらには、「(ふつう人が喜び、悲しみ、憤るべき状況で)喜び、悲しみ、憤る、不特定多数の人が
共感できる存在として描けているかどうか」とか。
最後の尺は、共感によって読者を獲得するという目的にかなう以外に、
近年では、逸脱(例として「不倫」)への注視から起きかねない「炎上」を極力回避する効果も
押さえた保険としても機能しているかもしれない。
もちろんハスミンは、この変化には気配の段階から敏感で、
前世紀のうちから「映画語がわからん者には映画はわからん。映画語は勉強して習得できるもの
ではない」というようなことを書いて、
次世代型の凡庸さの台頭を警戒している。
映画語でも漫画語でも音楽語でも、あるいはBL(ボーイズラブ)語とか、
そういうのはダイレクトに何々語であり、言葉で言い表せない部分のことではない。
「言葉では表せない」とか「言葉にならない」といった表現自体が言語中心の見かただと、
ハスミンの本には書いてあって、
私にはこれが衝撃的に目ウロコでした。

それはそれとして、ハスミンて、イルカ系entityの名前でありそう。
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  1. 2019/06/02(日) 23:42:08|
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『ものぐさ精神分析』デムパな再読

2019.4.20(土)

岸田秀氏の著書『ものぐさ精神分析』を、図書館で借りて再読した。
この本は現在、中公文庫に収められているが、私が読んだのは青土社から刊行されている
<岸田秀コレクション>のうちの一冊。1975年に同社の雑誌『ユリイカ』や『現代思想』に
掲載された文章を集めた初版(1980年)を再版したものである(1992年)。
精神疾患のとらえかたや、論拠となっている学説は古くなっているとしても、
この本の峻烈な破壊力は変わっていない。

エッジィであった。
右翼も左翼もバッサリ斬り、人類皆兄弟姉妹的な理念も神も仏も先祖信仰も微塵切り、
おそらく大勢の人が癒しのよすがとしていると思われる家族の絆、母性愛の類も粉砕、
あとに残った一面の真っ白な灰に唯「幻想」という文字が綴られ、
それも風に吹かれて消えていく、というような。
たとえば自己嫌悪について述べられた章では、
自己嫌悪はじつは「花もダンゴも欲しいという欲張りが使う詐術の一つ」と分析されていて、
太宰治の『人間失格』を例に挙げ、
「この上なく卑劣な根性を“持って生れ”ながら、自分を“弱き美しきかなしき純粋な魂”の持主と
思いたがる意地汚い人々にとってきわめて好都合な自己正当化の“救い”を提供する作品である
(カッコ内は奥野健男氏によるポジティブな? 評から引用)」としてある。
↑こういう淡々とエグい調子の文章で、種々の信念の聖堂が音を立てずに崩壊し灰になっていく。
拙文の読者さんのなかに、大学に勤務されていたころの岸田氏を知っている、という方が
いらして、その方によれば、岸田さんは、見ず知らずの人から殴打されるなどの被害に
遭われたこと一度ならずとか。むべなるかな。
この本は、幻想ではないと思いたいものがあるすべての人の逆鱗にふれる。

岸田さんはデムパな人ではない。
人間が幻想しか知りえない、言い換えると本能の壊れた生物になるのは、
生物として特異な発達過程をへるためである、というように、
人間の歪みの根拠は主として生物学から説明されている。
人間は、哺乳類としては未熟児ないし(猿の)胎児の状態で生まれてきて、
感覚運動器官がきわめて未発達なまま、かなり長期間にわたって親などの保護者に庇護
されないと生存できない。
この乳幼児の時期、人間は自分では栄養補給や防寒など生存に不可欠な活動ができないのに、
庇護者に守られて、生々しい現実から遮断された人工的な世界で欲求が満たされ、快適にすごす。
そこは、子どもにとっては、現実の出来事や他者によって制限されない、
求めればたちまち与えられる楽園である。
感覚運動器官が未発達なので、自他の区別、現実と非現実の区別もない。
ここに、現実とはズレた全知全能的な幻想我とその楽園ができあがる。
(対して、他の生物は人間よりはるかに早く自立するので、生得的行動を促す衝動は、現実環境への
適応を保証し、自己や種族の生存という目的につながる。つまり本能が壊れていない。)
そして、いくつになってもこの楽園と全知全能の幻想我は温存され、
ここへの回帰を指向するさまざまなイメージや物語を織り、育む。
楽園と幻想我を原点とする、この唯我独尊世界が私的幻想である。
しかし、それぞれが勝手にまぼろしの私王国に浸っていては生存がおぼつかず、
個体の生存がおぼつかなければ種族としての生存もおぼつかない。
そこで、各人の私的幻想をいくらかは満たしつつ、
個体保存や種族保存に必要な活動へと誘導していく共同幻想がつくりあげられた。
共同幻想とは、家族、氏族、民族、国民といった集団の「つながり」の根拠となる血縁、歴史、
神話などの幻想のことである。
人間が共同幻想を通して見る現実は、どんな場合でも擬似現実(合意された現実)であって、
物理的現実そのものではない。
生得的衝動にしたがえば個体や種族の保存に役立つ行動をとれる他の生物とちがって、
人間は本源的欲求が物理的現実の必要性から私的幻想のほうにズレてしまっていて、
物理的現実と直接のやりとりはできなくなってしまったので、
ある程度まで各人の本音の欲求(私的幻想)をカバーする共同幻想をつくって、
共同幻想を通した擬似現実に適応することで延命するしかなくなったのである。

私がこの本を最初に読んだのは十代のころで、その後、何回かは再読しているが、
今回、また読み返してみたところ、釈然としない点があった。
人類は滅亡を回避するために共同幻想をつくった。
しかし、各人の私王国の欲求と物理的現実からくる必要性のバランスをとることは至難で、
岸田さんは、本能が崩壊した人類のかなりの部分は、個体の保存も種族の保存もできず、
物理的現実への不適応から滅亡したかもしれない、と推測している。
滅亡してもよかったんじゃないか、と私は思うのである。
なぜ、生体の機能停止(死、滅亡)は「望ましくない」のであろうか。
たしかに、生得的衝動(本能)にしたがって生きている動植物は、人間の目から見ると、
自己を伸張し、種族として繁殖、繁茂していく方向性をもっているかに見えるが、
だめとなればあっけなく滅亡してしまう。
とすると、動植物に「滅亡」というとらえかたや「滅亡ヤバい」といった判断はなく、
細胞の分裂、増殖、死(アポトーシス)のように自律的な運動をしているだけと思える。
人類の場合、私王国の破れ目(栄養補給が断たれるなど)からヤバい気配が侵入してきそうだが、
共同幻想の成立以前に「死」とか「滅亡」「滅亡ヤバい」といった見かたができるとは思えない。
なぜなら、人間は自分の死を体験できず(この点はおそらく他の生物も同じ)、
他者の生体機能停止を「死」ととらえて、そこから自身の死を想像するからである。
つまり、「死」や「滅亡」が意識に上るには、
私王国は開国して、私王国に属さない他者を設定できていないといけない。
つまり、「死」や「滅亡」といった見かたができ、これを避けようとする見解が生じるには、
それ以前に共同幻想が成立している必要がある。

ということから、私は、
(1)生物としては特異な発達過程→(2)私王国の発生→(3)共同幻想の形成、
という順ではなく、
①とくに必要性なく、まず共同幻想が形成され、
②「共同幻想を通して感じられる擬似現実の向こう側にある本当の現実」が想定され、
②´共同幻想に吸収できない欲求や世界イメージが切り離されて私的幻想化する(共同幻想から
はじかれた欲求や世界イメージが私王国にまとまる)、
といったことが全部、同時に起きて、次いで、
③共同幻想を無自覚に習得する(インストールに近い)ため、
また共同幻想の起原を封印し、現実が共同幻想だとできるだけ気づかずにいるために、
人間の自立を著しく遅らせるという進化(?)の方向を選択する、
ということが生じたと考える。
もしかすると①~③ともすべて同時かもしれない。

なお、私のデムパ用語でいうと、共同幻想は、
客体‐空間‐時間思考システム(仮想集合システム)にもとづく個別集団のソフトウェアである。
ただし、私のデムパ世界では「擬似現実の向こう側に本当の現実が存在する」わけではなく、
「本当の現実」は思考で仮定した客体である。
擬似現実から演繹すると出力される別の擬似現実といってもいい。

以下12行、客体‐空間‐時間思考システムにもとづく一般常識的な書きかたをすると、
人間というのは、生物として異様といっていいくらい不合理である。
体毛はなく、外からの衝撃に対して無防備で、温度変化に弱いし、
直立二足歩行は腰に負担がかかるし、
生まれたあとの発達は遅いのに、胎児の頭や身体はデカすぎて分娩時に難産になる。
外から情報を得ないと、食行動も性行動もできない。
なのに、やたらといろんなものを食べ、調理で味覚の快感を増幅させ、
ほとんどの場合、繁殖とは無関係に性行動を起こす。
死や滅亡を怖れて避けようとするのに、
生物的生存領域をめぐって争っているわけではない同種族を殺したり、
わざわざ残酷なやりかたで殺したり傷つけたりする。
そのような行為が、幻想上の生存領域を守るためという被害妄想的な理由で正当化される。
とても万物の霊長などとエバれる仕様ではない。

他の生物にはみられない、生物として不合理なこれらの点は、
本当の(物理的な)現実環境に適合できなくなったことによって生じたのではなく、
「本当の(物理的な)現実環境」というものを想定させる思考システムがまずあって、
このシステムによって、自分が「自分の身体、心、魂」と「それ以外の環境」とに分離し、
「自分の身体、心、魂」維持のために、
「自分の身体、心、魂」が「環境」側に働きかけようとする運動がはじまることによって生じる。
常に働きかけていないと、「自分の身体、心、魂」は、「環境」に由来する空間的限界(他者、
病気など身体の内側からの反乱)や時間的限界(老化、他者に忘却されること)に侵食され、
衰滅してしまう。
べつに衰滅したっていいはずなのだけど、
衰滅に抗う心性は環境克服行動への駆動力であり、
環境克服行動は「本当の(物理的な)現実」への手応えをもたらすから、
衰滅回避は「本当の(物理的な)現実」が本当にあると思い込むためには不可欠なのである。
衰滅や喪失といった出来事は、ある変化を否定的に見たときの見えかたにすぎない、と
気がついてしまうと、環境克服行動の根拠がなくなる。
さらに、環境克服行動を止めても何ら実害はない、害と思っていたこともそうではなかった、
ということにも気がついてしまうと、
「本当の(物理的な)現実」はかなりアヤしく霞んでくる。
衰滅を危機とする解釈は(それを「しかたがない」とあきらめることも含めて)、
客体‐空間‐時間思考システムのエンジンであるとともに、
その解釈に根拠がないため、脆弱性でもある。
なぜ衰滅しちゃいけないの? という疑義は、思考システムにとって脅威である。

人間は、「私」が感じる感覚の向こうに客体(本当の現実)を設定することによって、
現実(私の用語でいう「像」「夢」)を主観的な心理世界と客観的な事実世界とに分割し、
両者にズレを設けて、
わざわざ不合理や不適合を、そこから生じる弊害とともに体験している。
不合理や不適合を体験するために、現実にヒビを入れてズラしたという言いかたもできる。

体毛がないとか、重力に抗して直立二足歩行しているとか、
母体に比べて胎児が大きすぎるといった、地球の生物としての奇妙な不適合は、
もしかすると、客体‐空間‐時間思考システムに囚われていなければ、
人間は、客観的な事実だと思われている現実像(夢)とはまったくちがった現実像(夢)を
描いていたかもしれない、
その「異界」では、これらの点は不適合ではなかったのかもしれない、
という可能性を示唆している。
  ↑
これは控えめな書きかたで、私のチャネリングでは、体毛なしツルツル、直立二足で
多少地面から浮いているエア歩行、地球人の身体像は猿類からの飛び飛び量子進化のゴール
なので次世代をつくる必要がなかった、ということになっている。
生殖の器官、機能は遠類から継承しているので、次世代をつくることはできるが、
代を重ねると猿類方向に逆行進化していき、猿類でも人間でもない中途半端なところで止まる。
これがベースで、地球人型でないほかの異界からスライドしてきてシェイプシフト(形態変化)した
人も多数いる(有翼卵生型、四足胎生有袋類型、元素系結晶分裂型など)。
いずれにしても、客体を前提とした人体諸器官やDNAや自然人類学的なアプローチからは、
客体を前提として空間‐時間思考に沿って展開した進化史の形跡しか見えてこない。
身体像の原型を知るには、マインドで象徴的な情景に変換翻訳される周波数
(一般的な表現では「意識」)を探究する必要がある。

客体‐空間‐時間思考システムという、集団ごとの共同幻想のオペレーティングシステムが終わるとき、
物理的感覚からなる「外側」とは区別された主観世界、いわゆる「内側」も終わる。
内側が終わるとともに、
内側の奥深くで楽園の再興を夢想していた私王国も終わる。
かつての内側は、
物理像(濃い感覚)-マインド像(中程度の感覚)-高次像(淡く微妙な感覚)からなる、
宇宙の海に融けていく。融けないものは虚空(ゼロポイントフィールド)へ還る。
そうなったとき、かつての私王国のルーツであった楽園の残像をまだ見ることができれば、
楽園は宇宙のプロトタイプ(原型)だったと感じられるかもしれない。
ただ私としては、乳幼児にもいろいろとストレスはあるので、
乳幼児期が完全無欠の楽園とは思えないのだが、
完全無欠の楽園を想像できるのなら、それはどこかにあるのである。

なお、岸田さんご本人がこの記事をご覧になることはないと思うが、
岸田さんの著作を読まれて理解されている方からすれば、
「このいたずらに長い記事こそ筆者の私的幻想を綴ったもの(呆)」ということになろう・笑。
  1. 2019/04/20(土) 16:09:15|
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『カラマーゾフの兄弟』から脱線したデムパなはなし

2018.6.28(木)

光文社の「古典新訳文庫」シリーズとして刊行されている、亀山郁夫氏の翻訳による
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読了(5分冊! なっが!)。

この小説は、下位チャクラだけで生きてるようなカラマーゾフ家の家長、フョードルを
鈍器で撲殺した犯人を突き止めていくという、ミステリーの形をとりつつ、
ややデムパがかったキリスト教信仰の実態、神や悪魔が存在するか否かを問う問答、
社会の下層にいる人々の生活描写などを織り込んだ、長大な作品です。
いろいろなことが起こり、いろいろなことが話されるが、
全体の眺望として牧歌的な印象だった。

翻訳者の亀山氏は、5巻に付された解説で、この小説を「象徴層」「(ドストエフスキーの
経験記憶が反映されている)自伝層」「物語層」の3層構造としてとらえている。
この3層は、私の読みというかデムパリーディングでアレンジすると、
①象徴層―神、悪魔、キリスト、人類、大地、無垢の子ども
②記憶層―登場人物の幼少年期の記憶、記憶の磁場から生じた反応パタン、記憶から
 漉された思想(神や不死はある/ない、神はいるとしても神の創造した世界は駄作だ説、
 リアリズムなど)、これらのうち作家の経験記憶が織り込まれている部分
③物語層―色恋、お金、サヴァイヴァル、暴力、19世紀ロシア版スクールカーストなど
という感じになっていて、牧歌的と見えたのは、
③で何があろうと、②がどうなっていようと、①がみんな同じで、ここで皆がつながるからである。
①というのは、ひと言で要約すれば、ロシア正教の衣をまとった言語下の聖俗感覚である。
地球人集団がこういう小説に描かれたような村だったならば、
一斉に同じ幻覚を見て、“現実”という、それよりやや濃い目の幻覚が変容する、
集合アセンションができたのかもしれない。
(でも実際には、どの層も作者ドストエフスキーの個体宇宙なんだけどね。)

地球人の周波数が低いままだったから一斉アセンドできんかったのよ、
という見かたもありますが、周波数なんぞ低くたってかまわんのよ、
ある程度、そろってさえいれば。

私の宇宙ではむり。私の個体宇宙に住んでいる人たちの場合、
③の象徴層こそがばらばらで諸子百家状態、さらには、
②の記憶層に、過去世とか別世などという時間形式で開くデータが入ってきた場合、
②と③の区別はあまり意味がなくなってしまう。
というのは、②が③のリニア時空間の感覚から切り離されて広がるために、
惑星の創成とか破壊、楽園からの意図的な墜天とか、シャンバラでチャンバラ(←つまらん!)、
宇宙戦争、などなど、中二病チックな語彙でしか翻訳できんようなテーマが跳梁跋扈し、
①の天上的なサーガと大差なくなってしまうからである。
そうそう、①と②は統合される、といってもいいな。つまり、
①象徴‐記憶層―ソウルレコード(<人類>のアカシックレコードではなく、個体宇宙のデータ
 レコード。時空間に制約されない)
②作業メモリ―マインド帯域に属する思考の一領域をなす、リニア時空間を前提とした記憶
③物理像―五感+身体内として感じられる感覚で認識している宇宙像
というように再構築される。

このうち、①について、
私が私の個体宇宙に住んでいる人たちとの共通項を見出そうとして、言葉を交わしたとしても、
おそらくはすれちがいに終わる。
用語とか、断片的にあるいは一時的に重なることがあるとしても、
それぞれが独自のデータ(記憶)構成をもつコスモスとして存在していて、
独自のメタフィジクスで動いており、
それぞれが直覚で「だってそうなんだもん!」と感じているのだから、
私を含めてどうにも始末がわるい(笑)。
ただ、言葉のうえでは正反対のことを言っていたり、かみ合わないAさんとBさんが、
言葉を聞き流し、読み流ししてソースコードにする(エネルギーリーディングする)と、
同じことを別の表現(象徴体系)で言っているだけだとか、
ひとつ上の次元で一致する、ということがわかる場合もあります。
ひとつ上の次元で一致するとは、阪神ファンも中日ファンも同じ野球好きである、みたいな。
むろん、相当高次まで行かないと一致をみない(つまりほっとんど共通点がない)
というケースもあります。
上の例でいうと、阪神ファンとアイドルの誰某のファン、みたいなもので、
「野球」も「スポーツ」も共通のベースにはならず、「人間のエンタメ活動」といったあたりまで
ロングショットにしないと同じグループとはみなせないケースです。
なんにせよ、迎合も折伏もせず、我彼のちがいをそのまま承認すれば、
共感を超えて共存することは可能です。

私の個体宇宙の実状がこうである以上、アセンドするとなればセルフ方式しかない。
セルフ方式では、著名な先生やカリスマの言動を参照して答合わせをすることができない。
でも、ハイアーセルフ‐高次帯域というタテのやりとりがユージュアルになると、
答え合わせをしようという発想がなくなる。
何か一致する情報が必要なときは勝手に入ってくるし。

それとセルフ方式だと、大規模な集団幻覚イベントが起きる確率は非常に低いけど、
ひとり幻覚イベントが起きる可能性はおおいにあります。
私の場合、どうも小分けにして何やかや起きているらしく、
最近では、6月の半ばあたりから夏至にかけて、連日ヘンテコな夢を見、
夏至の夜には、寝る直前にあたまというか首から上が吹っ飛んだ、みたいな雷撃的衝撃が
ありました。不快感はなく症状でもないけど、ただびっくらした。
この種のイベントは、スピリチュアル用語で「ゲートが開く」とか「アクティベーション」などと
いわれてる現象で、
要するに何がしかの意識の扉がひとつ開いて、個体宇宙の域が広がること、
広がったぶん、本来の状態に回帰したことを意味します。
これが物理像にどう影響するかは、考えてもわからない、というか私の場合、
考える必要を感じないので考えません。
イベントなんか仕掛けずに、なだらかに自然に回帰していくパタンもあるかと思うので、
こういう不思議な出来事がなくてもがっかりすることはなくってよ。
とくに不思議なことはなんにも起きてないけど、
気がついたら自分即宇宙だったわ、いわく言いがたし、
ってのがいちばんエレガントかもしれない。
  1. 2018/06/28(木) 15:41:07|
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『レベレーション』(漫画)の超デムパ読み

2018.1.13(土)

『レベレーション―啓示―』(山岸凉子/講談社モーニングKC)の3巻を読んだ。
オルレアンの乙女軍人ジャンヌ・ダルクの漫画です。
1、2巻もアゲインでイッキ読み。すっげおもしれーわこれ。
ところどころ腕の位置とか首と体幹がズレててヘンとか、デッサン人形的にちょっとアレで、
豹専務いわく「山岸先生はむかしからそうなのよ。身体の向きがこうなると首と腕がこうなるのは
この人の癖で」と、絵の描ける人らしい鋭い指摘が。しかしそんな重箱の隅っぽいアレはさておき、
描いている人ご自身が視える系だけあって、
お告げが降りてくる場面とか、お告げにとまどいつつも駆り立てられていく主人公の心、
「神の声を聴く娘」降臨に揺れたり高揚したりする人心、坊さんたちのやっかみ、
などなどの描写が、15世紀にカメラを持ち込んだかのように迫真である。
これから、ジャンヌがミッションに呑まれていく過程もどう描かれるか、わくわく。
なお15世紀には、かつて西フランク王国だった地域の人たちに「フランス人」という国民意識は
ありませんでした。太守様とかお館様といった感じの地方領主がいて、みなその領民だったから。
ジャンヌ・ダルクが救国の英雄として大ブレイクするのは、ナショナリズムが盛り上がる19世紀に
入ってからで、彼女の伝記の多くは19世紀に書かれています。

この漫画は作品としておもしろい。が、それはそれとして。

ジャンヌ・ダルク物語を高次帯域がかかわるプロジェクトとして見た場合、
並行時空を排除した、年代記等の史料にもとづく地球人的な事実展開では、
このなりゆきはあきらかに失敗例です。
戦争で大勢の人間が死んでいるし、何より現地担当者が殉教しちゃってるし。
どんなにキビしい(針の穴を通すようにして実現確率を上げなくてはならない)プロジェクトでも、
犠牲者がこんなに大量に出ることはないし、担当者の安全は保障されるし、
こんなムチャぶりはしません。
こんなに急がせるのもありえない。
第一、そのプロジェクトが全体計画のなかでどんな位置にあるのかが不明です。
オルレアンを(イギリス兵から)解放する、シャルル(7世)を王位に就ける、そのことにどんな意味が
あるのか、現地担当者はわかってなくてもいいんですが、
高次視点で見たときに、この着地点がどこにつながるのかがわからない。
亡くなったあと、ジャンヌの名誉は回復されますが、
ヴァロア王家が領地を奪還しても、王侯方のどろどろの死闘はまだまだつづきます。
それがアメリカ大陸に飛び火し、アフリカ大陸に広がり、アジアを巻き込み・・・というか、
そもそも地球上のほとんどの地域で、暴力に訴える野蛮な闘争は恒常的にあって、
特段、そこに一石を投じるような出来事にはなっていない。
うーん・・・いったい何がしたかったの?って感じで、収拾がついていません。

それでも、地球の人たちは、史料に裏付けられているようなジャンヌ・ダルク物語の「型」を選び、
そういう「型」のデータをオンにして歴史というストーリーに組み込みます。
連帯感情でつながる仲間や、幻想共同体(一族、民族、宗教や思想を共有する信徒たち、同志たち)
のために一命を投げ出すお話が琴線に響く。
エゴがワンネスと接続していなくて閉じている人は、
こういうお話を「大きな自己実現物語」として読みますが、
エゴがワンネスとつながっている人にも、この「型」への指向があります。
作物の収穫を安定させるために火山を噴火させるプロジェクトで、ひとり危険地帯に残った
『グスコーブドリの伝記』(宮沢賢治)のブドリとかね。
堤防に開いた穴に腕を突っ込んで、町を洪水から守った少年の話とか(私は知らんのだが、
前世代の人たちの小学校の国語の教科書に載っていたらしい)。
そういう物語が刺さるの。

テラン(地球人)には、ワンネスとつながる方向が閉じている分離エゴを劇的に滅却、浄化しよう
とする傾きがあります。
これは、ワンネスへの融合コードを封印している集合システム(集合意識)によって抑圧されている
融合コード開放への欲求で、集合システムのシャドウです。
ずっと分離しっ放しなのは不自然でしんどいので、反動が働くんだよね。
ここでは詳しく書きませんが、フロイトが「タナトス(死への本能的欲求)」と呼んだのはこれです。
天使や宇宙人などの外来ソウルの人たちでも、
広域破壊のデータ(記憶)とリンクすると、集合シャドウと共振してしまうことがある。
レムリアだろうがアトランティスだろうがマルデックだろうが、それらのお話の真偽は問題ではなく、
いつの時代の出来事だろうと関係なく、広域破壊というパタンのデータがあって、
そのデータのアクティベートがテランの集合シャドウと呼応して、シャドウに引き寄せられるわけ。
この分離エゴ滅却指向のために、
多くの時空(リニア時間では大部分が過去)で高次帯域が企図したテラン関連プロジェクトは、
聖人や偉人や英雄を記録に残しただけで、拡散しちゃってます。
担当者の瞬発力で一瞬、盛り上がるんだが、祭りがすむと拍子抜けして風化していく。
結果、担当者の周囲にいた人たちとか、局限的な変化はあっても、
地球を物理場ポイントにしている多数の意識体の、ほとんどの周波数は上がらない。

どうも高次帯域では、集合シャドウの作用が不可解であったらしく、
何度も支援を試みてはポシャる、ということが繰り返されたようです(高次帯域には生滅方向をもつ
不可逆の時間はないので、単に同じプロセスが繰り返されているイメージ。Aの場面の次はBに
なるはずなのに、なぜかFに飛んでしまうので、またAからやり直す、といったような)。
でも、情報はフィードバックされてるんで、今回は同じ轍は踏まないってことで、
「分離エゴ(私、ほかの人、動植物、物、といった区別があるときの“私”意識)を明確にし、
境界線をキープして、滅却に逸(はや)るな。他者(他宇宙)との共振を急がぬように」
と勧告してきています。
ワンネスへの回路を開きながら分離方向もキープされていると、
ワンネスに開かれた方向から入ってくる高い波動は、物理像をつくっている体性感覚を変えて、
自他の分離を融合的に、マイルドにします。それが加速すると次元上昇になる。
この柔らかさは物理像の変わり易さでもあり、これまで奇蹟とされていたようなことが当たり前に
起きる素地になります。
劇的なイベントは起きにくいけど、周波数のアゲは着実で、多数の意識体に波及します。

この時機、ジャンヌ・ダルクに顕されたようなムチャぶりはまずないとは思いますが、
「地球」とか「人類」とか「日本人」といった大きなキーワードが入るメッセが来ることはあるかも。
したら、自他の区別がある“私”意識のほうもきちんとキープして、
自分サイズに落とし込むようにしましょう。
高次帯域からのお告げを平身低頭して押し頂いていてはいけません。
ポジションがちがうだけで、同じ自分コスモスの対等な波動ですから。
ムリと思ったらスルーしてもかまわない。バチなぞ当たらん。
大事なお告げなら、手を変え品を変えして、また来ます。

以下、もし指導教官がジャンヌ・ダルクの役だったら。

大天使ミシェル オルレアンにおるイギリス兵に帰ってもらって。それと、ヴァロア家のシャルルを
一応リーダーに据えたってや。
教官 はい? それ、ワイの暮らしとなんの関係が?
ミシェル 戦争やめさせたいねん。みんな疲れてヨレヨレで、荒んでるやんか。
あと、こっちの土地の精霊さんがイングランドの波動に押されてまいってはるねん。
教官 知らんがな。なんでワイなん? もっと偉い人に頼んだらええでしょ。
ミシェル あの連中は低波動でカルマまみれで、どもならん。
教官 なら隣り村のマリーでもロザリーでもええやん。
ミシェル あの子ら怖がりやし、馬に乗れん。
教官 なら言うとくけど、人を殺めるのはNGや。偉い人らの婚戚関係とか利害関係とか、
うまいこと操って、全部外交交渉でまとまるように組み立てて。
神さんを楯にして、裏で偉い人らを丸め込むくらいの役ならやってもええわ。
ミシェル しゃあないな。ほんならまず、ヴォークルール要塞のお頭のボードリクールっちゅう男に
会って、シャルルんとこに連れてけって頼んでみて。
教官 あほらし。なんでワイのほうから行かんならんの。そのボードなんとかいうおっさんが
こっちに来るように仕掛けてよ。まず、うちの村にも来たあの野盗らを舌先三寸でワイが改心さす、
その噂が広まって、ボードなんとかさんがその噂を聞きつけて、とか、方法はいくらでもあるやんか。
ミシェル ・・・わかったわ。しかし注文多いな。
教官 当たり前やん。こっちは生身の人間よ? 切られたら痛いし、ふつうに稼動するのに、
飲んだり食べたり眠ったり、シッコもウンコもせんならんのよ?
鎧のなかでシッコもウンコも垂れ流しとか、ごめんやわ。
(↑西洋式の鎧は、いったん身に着けると人に脱がせてもらうまでは脱げないのでそうなる。)

ミカエルって、おフランス読みでミシェルにするとチャラいな。
  1. 2018/01/13(土) 19:07:25|
  2. ひみつの閉架書庫
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エゴっておもろい(追記あり)

2017.12.22(金)

『わかっちゃった人たち』という本を再読した。
本の内容は、副題「悟りについて普通の7人が語ったこと」のとおり、
スピリチュアル界の先生でも専門家でもない人たちに、悟りステージに至るまでの経緯と、
で、今どうよ? てなことを話してもらって、まとめている。
どの人も淡々としたテンションで、「たいしたことじゃないよ。とくに神秘的じゃないし」
「スピリチュアルな探究も含めて、何かに駆り立てられることはなくなった。情熱とか意欲とか、
そういうバネなしに充足している」といった話がつづく。

スピリチュアルの流派でいうと、いわゆる「非二元」の本で、2008年にオーストラリアで発行され、
2014年に邦訳が出版された。
この本の語り手のような人たちは、きっと、もっと増えてるんじゃないかな。

最初にこの本を読んだときは、「ふーん、そんなもん」てな感じで、けど先生じゃない人の話は
珍しかったし、トンデモネタもなければ専門用語も出てこず、わかりやすくて、しみじみおもしろかった。
あらためて読んでみると、随所で「ああ、そうだよね」とうなずきつつ、笑える。
どの人も、「自分」が消えていない。

7人とも、全体しかないのが当たり前になっていて、全体の一部で全体とつながっている
某という人物(語り手自身)が何か言ったりしたりしている、という在りかたになっている。
けど、ときどき、自分が戻ってくる。「私」と言う、こいつが。
なぜ、どういうわけで戻ってくるのかわからんが、ふいに「私」は戻ってきて、
でもそれは当面「私」をやっている一体性だから、混乱はしないと。
これってたぶん、「私」がミュートされたり、濃くなったりしているんだろう。

それはエゴコードがあるからだよ。notとnot“not”がペアになって踊ってるんだよ。
周波数帯(次元)のちがいからズレができて、振付が片方ずつ見えることがあるだけ。
と、私は本のなかの語り手ではなくて、
彼らの話にエゴコードのトリッキーなふるまいが表れているのが可笑しい。
not(~ではない)がそれ自身を否定しちゃう(“~ではない”ではない)のも笑える。
お笑い芸人のノリツッコミのよう。

エゴとは「私」という統覚意識のことだ。
「私」はこつ然と“私”という主体で現れるのではなく、
一体性に「これはちがう!」という否定が生じて、否定したものを外側へ対象化し、
外側ではない側が“私”として立ち上がってくる。
しかし、同時に「これはちがう!」はこの否定自身にもかかるので、
<これはちがう!「これはちがう!」> →「“これはちがう”はちがう」 →ちがわない、
ということになって、「私」と「全体」は同時に両立する。
この<これはちがう!「これはちがう!」>ってのがエゴコード。
その起原は、0(振動していない)かつ1(振動している)であるZero Point Fieldが、
0と1に分かれた0/1帯域である。
しかし、0/1の“私”意識は、同じエゴコードの作用によってZPFに還っているので、
0(振動していない)と1(振動している)は互いのちがいを認識するだけで、対立はしない。
人間のエゴも同様に、エゴコードが健全に(0/1と同じように)作用していれば、
「私」であると同時に「私」ではないことになり、「私」は「私」でない環境を認識するだけで、
「私」と環境は対立しない。

統覚意識は、全体が物質(元素)意識、動植物意識、個体(人間)意識に分かれる前の
ワンネス意識(ZPFと0/1)に起原をもつから、とてつもなく深い。
悟ったくらいじゃなくならないよ。なくす必要もないし。

「これはちがう!」と宣告して外側をつくり、その外側の環境のなかで孤立する「私」は、
意識の認識範囲を制限する。
本来、全体である意識は、「私」になったとたん、「私」がいる次元(基底次元)に閉じ込められる。
6次元の「私」は6次元しか、5次元の「私」は5次元しか認識できない。
物理像に「私」がいれば、物理像の範囲しかわからない。
「私」と言わせる“私”意識が基底次元をつくるといってもいい。
けど、「これはちがう!」自身に「これはちがう!」を宣告する融合コードが活きていれば、
「私」が全体と重なり、「私」であると同時に「私」が消失するZPFが限界範囲となる、
つまり限界がなくなるので、高低どの次元も認識できる。

なお、物理像は3次元かと思いきや、どっこいギリ4次元です。
4次元にある設計図を、3次元以下まで降りてる物質波動の周波数で変換し、
感覚(体性感覚:五感+身体内部に感じる感覚)という信号にして、
この信号で、感覚でできた立体動画すなわち“像”を構成してるから。
物理像の周波数帯域は設計図より低いけど、物質そのものではありません。
これを便宜的に3次元と言ってるけど、人間意識体の基底次元は本当は4次元です。
で、「私」を低い次元に降ろすほうが、昇るよりも、ほんとはむずかしい。

全体でありつつ、全体から分離して「私」が出現すると、
宇宙は、半身は宇宙全体でありながら、
もう半身は、何が起きるかわからず偶然に左右されるカオスに投げ込まれる。
だがこのツインがエゴコードで同時循環していれば、
全体でありカオスである宇宙は、数多の音色で響く交響楽になる。

なんかスピリチュアル界では相変わらずエゴは悪役だけど、
それは「これはちがう!」という分離コードだけが作動している、
融合コードを欠いた機能不全エゴがエゴだということになっているからだろう。

あるメジャーな宗教の教典に出てくる、みだりに口にしちゃいかん神様の名前ってのも、
ほんとはエゴコードのことなんだよね。
その神様も、私が知る限り、スピリチュアル界的にはあまりよく言われていませんが。
般若心経といい、この神様のネーミングといい、
集合システムでキリキリ緊縛してるわりにはヒントがぼろぼろ。
つか集合システムがあるためにネタバレにならんのかな。

<本のデータ>

タイトル/わかっちゃた人たち 副題:悟りについて普通の7人が語ったこと
原題/Everyday Enlightenment――Seven Stories of Awakening
著者/サリー・ボンジャース
訳者/古閑博丈
発行/ブイツーソリューション
発売/星雲社
発行年月日/2014年1月20日
価格/1,500円+税

12月23日(土)

意識が広がるとは、統覚意識“私”が広がることといってもいい。
“私”って、基底次元で環境と分離している人物(筆者なら“みけ”って人)だけじゃないのだ。
この、おなじみの“私”感だけが“私”じゃないんだよね。

①基底次元で“みけ”だけをやっている“私”(こてこて)
②基底次元で“みけ”をやりながら全体である“私”(ほどほど)
③ついに“私”が消えてしまうほど全体である“私”(ホワイトアウト・・・)

とりあえず、地球人のアセンションの着地点は、
基底次元を物理像としたときの②で、
それには、おなじみの①で閉じないで、③に開かれている必要がある。

でも、どの次元にも、この3パタンがあるはず。
どの次元にも“私”はいて、それぞれ“私”感がちがう、
って、私にはまだよくわかってないんだけど、
私的にはすごくおもしろいよ。わくわくするぜ。

そういえば「私はいる」ってのが例の神様の名前だったっけ。
  1. 2017/12/22(金) 22:49:35|
  2. ひみつの閉架書庫
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みけ@猫科ホールディングス

Author:みけ@猫科ホールディングス
アルクトゥルス系在地球人。
男女どちらにも属さないトランスジェンダーで、
イタリアの美少年のような豹専務(♀)が同居人。
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